緩くスピリチュアリティな道を生きる…TAO

いつでも自分らしく…魂の感じるままに…気づいて行く…素直に表現する…そして楽しむ…

五感を通しているのは心と愛。

2024-02-21 | スピ的視点
  人間の五感が当たり前に日常の価値を下げているという話を昨日はしていました。

五感を通して奥には心も愛もある。
心、愛、与えることもするし、受け取る事もする。
眼は物を見るだけではない、耳は音を聴くだけのものではない、
鼻は臭いを嗅ぐ、息を吸うものだけではない、
口は物を運び入れ、喋るだけのものではない、
触る手や足は、肌は?ただ物をつかんだり歩いたりだけでもない。
肌は美容に関しての一つだけではない、
触る(さわる)のではなく触れる(ふれる)
五感は肉体のために機能しているだけでない。
全て心や愛の通り道。

例えば眼で学んで気付きを探してみると、
物質ばかり見ていると心はどう感じているのか、
人の顔ばかり見て心は何を捉えどう思っているんでしょう。
眼にも奥の第三の眼があると言われています。
人の顔ばかり見るのでなく、人の顔の奥の心も観る機能がある。
そして自分の眼の奥に入ってくる心。
心が通じ合う。
通じ合う時を止めた時、諦めた時どうなると思いますか?
近年では白内障や緑内障など、レンズ、焦点、視野、筋肉、肉体的には色んな部位に負担がかかっていて欠損や障害や傷などとなっていますが、それを心に置き換えてみたらどうでしょう、
目を通して物を見ますが、目を通して心や愛も通します。
自分の心相手の心、その交流ができているのでしょうか?
視野が狭くなっている、それは心の視野が狭くて広げないとキャパオーバーなんじゃないでしょうか。
見たいもの、見たくないもの、見ずに避けているもの、見ないで逃げているもの、そこに心はどう働いているのか?
その症状は心の表現だったりするのだと。
その心を自律できているのか、
その心を俯瞰できているのか、

こんな事の奥の心に気づいて欲しいという魂のSOSかメッセージでは無いのかなって思ったりしています。
悪い事ではない間違っている訳ではない、恥でもない。
自分と自分の心の対話がしたいだけ。
相手がいるとしたら相手が寄り添ってくれているのか、SOSを出しているのか。

眼だけでない、耳だって、口だって、鼻だって、皮膚だって。
心を知って解釈できるのは自分自身の対話で自分が出来る事なのかなと。

私自身は幼い時から眼が悪くて視力が弱くて乱視で、よくなんで?って考えていました。
最初は何で自分だけという視野の狭い思考でです。
メガネが嫌やなとか、眼科に行くと注射されていたので嫌やなとか、眼科ではいろいろ体験したので考える要素が多かったです。
それもだんだん心と通じていると感じ出して変化していったように思います。
疲労を感じるのは目からでした。
飛蚊症も一時あったけど、治りました。
耳はよくて、気配を耳でよく感じていました。
鼻もよくて匂いに敏感です。
人の臭い嗅ぐ事を無意識にしている時があります。
たまに旦那や子供はわざとクンクン嗅いでいました (^^;)
臭いで人の病気も感じたりしますが、それを人に言う事はありません、言ったところでどうにもなりませんから!!

この辺の五感って動物的本能と同じなんでしょうね。
近年では犬でも癌を臭いで発見するというのと同じような。
まあ動物の五感とは雲泥の差ですが、
人間だって本来は五感がもっと鋭いはずです。

五感をすっ飛ばして物質次元に生きているという日常の自分を少し俯瞰してみるとどうかなと思うのです !(^^)!




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