緩くスピリチュアリティな道を生きる…TAO

いつでも自分らしく…魂の感じるままに…気づいて行く…素直に表現する…そして楽しむ…

生命に目覚めたら…

2021-05-26 | 真理
  「生命」という事に目覚めたら…きっと命を与えられていることにふと気づくでしょう

そうなると、生きる使命にも気づくでしょう

当たり前すぎて気づくのを忘れていただけ

そんな話をしていました

自分が生まれた事や生きてる事の気持ちの土台が無い限り、どこか納得いかないんじゃないか、何か満足感を感じないんじゃないか

そんな風に考えます

心からの実感が魂の実感でもあると思うからです

そもそもが魂が肉体を借りて生きているからでしょう

先ずは「生命」という事に目覚めるとやっと次へのスッテプになると思います

それが命を生きるという事になるからです

そして目覚め…が生きる覚悟へと繋がって行くんでしょう

昨日はその生命誕生の瞬間の話をしましたが

細胞がカタチを象って行き、肉体が創られていく

そして決心して母親の産道を降りてくるというスタートを切るんですね

そして「三つ子の魂百まで」という期間を経て世に混ざり広がっていく

赤ちゃんて凄い覚悟ですよね

初めてこの世に生まれて、母親や周りに抱いてもらいぬくもりを知り、

目から光の情報が入り、耳からも音の情報が入って

鼻から色んな匂いを感じ、舌で感触や味を感じていく

朝と昼と夜の時間というものを教えてもらいながら体感を整えて行く

全てが初めての様で、何故だか親しみを感じ、愛を知っていくという

誰もがこうやって始まっている

今生きているという事はこういう事が無い限り無いという事

たとえ捨て子だったとしても誰かに守られてたから今生きている

自分が覚悟したから自分の選択で今生きている

経験の中でどんな事があっても、難があるから有難い(ありがたい)

若い時には生きていく覚悟

年老いていく時には死ぬ覚悟

人間は覚悟して生まれて来たからいつでも覚悟と共に在る

その「覚悟」という字を分解すると、「悟りに目覚める」という事ですね

若い時の生きる覚悟の時はただただ求めてガムシャラに突き進んでいて気づかないまま来たかも知れないけど

年老いて行くに従い、何事にもガムシャラや熱意が薄れると、急にその覚悟を忘れてた事に気づく

覚悟してた事を忘れ、覚悟が無いから不安になる

その上、命を与えられた事も忘れていたのに、残りの命と向き合う事になって慌ててしまう

与えられた命、いつまで生きれるかではなく、死ぬまでにしておく事、考える事、手放す事

そんな事にも覚悟が無いから不安になる

不安さえも手放す事をすれば道は開け、進む覚悟となるだろうに

死ぬ覚悟と、死を考える事とは同じではない

覚悟というのは悟りに目覚め道を開く事

死の先の「命」がみえる事




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