
フェスティバルからの~気付きで、自己承認欲求の話をしていました
自分の存在を自分で認めるには、そしてそのプロセスには、結構長い道のりがあります。
言いましたが、そのために生まれて来たのですから (^.^)
そのプロセスの間ではいろんな感情に出会います。
他人の感情もですが、自分の感情にも (^.^)
嬉しい感情にも嫌な感情にもです。
でもどちらも自分の感情で、もちろん他人の感情。
それをごっちゃにするからややこしくなるのであって、
自分の感情は自分の心が育てて来たもの、好きも嫌いも両方知って理解してあげるとどんな感情も愛おしくなるもんです。
その過程で他人の感情になるとどうも許せなかったり、
他人から自分の事を指摘されると憤慨したりするのです。
そして他人なら縁切るのも平気だったり、無視できるのですが、
自分の感情だと気づくまでは自分の感情なんで無視できません。
常につきまとう。
常にそんな人と出会うという事は自分に付きまとっている自分の感情なんです。
その感情を好きでも嫌いでも一旦理解してしまうと冷静に俯瞰できます。
自分の事も俯瞰できるし、他人の事も俯瞰できます。
そうなると、感情に邪魔されない問題の本質に出会うようになるのです。
そうなった時には自己承認欲求もフラットになります。
理由もなく、以上も以下も無い。
時に大きく胸を貸す事も出来るように (^.^)
まあ他人の人間関係の中ではややこしく絡むのでゆっくりリズムで進めばいいでしょう。
基礎土台と言いますか、家族や親子や夫婦の関係の中で
自己承認欲求が満たされているかいないか。
親は親目線だし、子供は子供目線、妻は、夫は……となりますよね。
そこが始まりですね (^^;)
家族持ってないし、子供いないし、独身だし、と言っても。
自分がここに存在する限り、親はいます。
その自分の存在を知り、親の存在を知る。
これは生きている限り、最初に考える本質なんだろうなと思います。
いつだったか、おのころ心平氏の記事に在りました。
「親という存在を哲学する」「子育てを哲学する」「男と女を哲学する」他、
何てことをワークショップで順に学びませんかと。
宗教や何よりも大切かなと(^.^)
宗教もそんな事を伝えているんだろうけど、古代式で難しい言葉で伝わりにくんでしょうね。
だから先祖や親世代から学んでいない。
というより、伝わり方が歪んで行ってしまった。
一番大切な愛が伝ってこなかったのかな (^.^)
だから今の時代に自己承認欲求が強くなりすぎ、
身勝手になったり、顕示欲となり、傲慢になったり、塞がれた者にとっては我慢という傲慢さに強く押し込まれて行った (ー_ー)!!
やっと多様性という時代に、いろんな事がフラットになりつつある、ボーダーレス、境界線が無い、一人一人が個性の時代。
それでも愛が無いと、思いやりが無いと、誠実が無いと、ただの身勝手と終わってしまう。
そうならないために本質を哲学して欲しい。
今ふと思い出した言葉があります……、
「そんな子に育てた覚えはない!」
聞いた事がありますよね、ドラマでも実際にも。
これってねぇ~
実際、じゃああなたはどうよ!……、なんて聞きたくなるよね (^^;)
うちの姑もよく入院してたんだけど、孫連れてお見舞いに行くと、子供3人も生んだのに、ってよく言ってました。
誰も見まいに来ないのか、多分お姉さんは行ってたと思う、弟も行ってたと思う。一番気になるうちのオットが来てなかったんだろう。
そんな皮肉なのか、
行った私達にはありがとうも言いませんし、息子(オット)の事ばかり、
私もパパは忙しいから代わりに来てるやんって心の中でもやッとしてた。
「そう育てたのはお母さんたちじゃないの?」って気持ちでした。
こんな事からも親とそのまた親の気持ちも、親と子供の気持ちもすでに歪んでるんじゃないですかって思ってた。
そうなると自己承認欲求も歪むんだなと、めちゃ冷静な私の心理素材にもなってた。
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