「「あ」「い」「う」「え」「お」から順番に書いてみよう。」
と思い立ち、最初の自主練を始めた。
「そんな簡単なことを…」
と思って
「あ、い、う………?……?!」
と止まってしまった。「え」から後の文字が思い出せない。「か」から後は、書けないどころか思い出すこともできなかった。
後から診断されたことだが、当時の私への診断は「脳出血の後遺症による重度の失語症」。簡単な日常会話はできるが、言動に重大な障害が残ってしまった。
最初に駆け込んで入院した印旛日本医科大学付属病院では、平日に言語のリハビリを行った。前出のように「いぬ」と「ねこ」のように、絵と言葉を組み合わせた状況を読み取って答える問題に答え続けたが、「あげずっぽ」とか「ヤマ勘」とかいう類の「クイズ」に答えるのは苦痛でしかなかった。
何よりも、「こんな簡単にできていた問題に答えられない自分」が歯がゆくて、不安で、苛立ちを募るばかりだった。それは、特別支援の児童や認知症のお年寄りと同じ類なのだろう。失語症を経験して良かったことがあるとすれば、「いろいろな立場の人の思い」が感じられるようになったことだろう。
日本医科大学はきれいな病院で、ドラマの舞台にもなったヘリコプターの隣で散歩ができたのは快適だった。看護師さんたちも親切で洗練されていた。言語のリハビリがない土日には、病室の周辺の歩行訓練にも付き合ってくれた。
嫌だったのは、建物が大きくて検査や問診を受ける部屋への移動が大変だったこと。
そして何よりも、「土日祝日は言語のリハビリができないこと」が私の焦燥感を煽っていた。
と思い立ち、最初の自主練を始めた。
「そんな簡単なことを…」
と思って
「あ、い、う………?……?!」
と止まってしまった。「え」から後の文字が思い出せない。「か」から後は、書けないどころか思い出すこともできなかった。
後から診断されたことだが、当時の私への診断は「脳出血の後遺症による重度の失語症」。簡単な日常会話はできるが、言動に重大な障害が残ってしまった。
最初に駆け込んで入院した印旛日本医科大学付属病院では、平日に言語のリハビリを行った。前出のように「いぬ」と「ねこ」のように、絵と言葉を組み合わせた状況を読み取って答える問題に答え続けたが、「あげずっぽ」とか「ヤマ勘」とかいう類の「クイズ」に答えるのは苦痛でしかなかった。
何よりも、「こんな簡単にできていた問題に答えられない自分」が歯がゆくて、不安で、苛立ちを募るばかりだった。それは、特別支援の児童や認知症のお年寄りと同じ類なのだろう。失語症を経験して良かったことがあるとすれば、「いろいろな立場の人の思い」が感じられるようになったことだろう。
日本医科大学はきれいな病院で、ドラマの舞台にもなったヘリコプターの隣で散歩ができたのは快適だった。看護師さんたちも親切で洗練されていた。言語のリハビリがない土日には、病室の周辺の歩行訓練にも付き合ってくれた。
嫌だったのは、建物が大きくて検査や問診を受ける部屋への移動が大変だったこと。
そして何よりも、「土日祝日は言語のリハビリができないこと」が私の焦燥感を煽っていた。