2020年、あけましておめでとうございます…てか、こっちはほとんど更新してませんが。
新年に少し考えたことのメモ書き…理性を信じない保守というものについて…
「保守思想」といのは、人間の理性を全面的に信用しない→ゆえに、これまでの経験や伝統とかにのっとって、暫時物事を進めていこう!とする考え方や態度のこと…というふうに理解している。「啓蒙思想」その他に則った「革命」や「革新」思想に対する「反動(言い方はどぎついが、「革命」で社会のあり方が変わる事への対抗)として生まれてきたものだ。すなわち「革命」思想が先行してある。
まぁ、それは良い。「人間の理性」について懐疑的であるという態度・あり方は大切だ…人間は間違うことが多々あるからだ。
とはいえ、理性を信用しないで暫時改良…という在り方に、限界が来た時にどうするのか?
何が言いたいか?というと、「私有財産の廃止」についてである。
現代資本主義社会において、莫大な資本は「私有」されている。これが「利潤」を生むべく運動しまくる…生産→消費→生産…のサイクル内でそれが収まっているのならともかく、「利子生み資本」として、その外部から「利子」、すなわち利潤、配当だけ求め続ける部分が巨大化している。「利子生み資本」が外部から利潤部分を吸い上げることにより、労働者に十分な「配当」(賃金、取り分)が回らないどころか、生産→消費→する部門全体に十分な資本が回らない有様となっている。これが、資本主義社会で生産力が向上しても、格差が広がり様々な問題が生じてくる原因であろう。そういった「私有財産」…厳密にいうと、生産→消費→サイクルにかかわりのない、むしろ邪魔をするような「利子生み資本」分や、内部留保とかいったようなもの、あるいはカルロス・ゴーンのような奴らがが贅沢をするような部分…が、現代社会の桎梏となっているということだ。
ということで、理性的に考えれば、こういった「私有財産」は廃止…取り上げて、無いことにしてしまう、あるいは別の生産→消費→部門(公的な部門、すなわち利潤をうまないような部門)に回されるべきだろう。
回すために、私有財産を所有している者どもに、「理性的に」訴え、彼らが納得した上でそれらを「没収」すればいちばんエエ、平和裏に終わる…
が!
「理性」を信用しない!というのであれば、それは絵空事になる。
よって、「私有財産」を没収し、あるいは別の部門に役立てるためには、どうしても暴力的な革命が必要になる…すなわち、「保守思想」があれば、また暴力革命…もちろんレーニンがやったような、武装蜂起による権力奪取の他、議会で”圧倒的”多数を得、かつ官僚機構も革命的人士で”平和裏に”占めるというやり方もあるだろう…がセットでやってくる。ということだ!
かなり乱暴な論であるが、要するに「私有財産の揚棄」というのは、これぐらい激しい正と負のたたかいが無いと、無理なのだろうなぁ~ということだ。