城塞都市(?)太宰府。
その防衛機能は?
水城跡(国指定特別史跡)
664年(飛鳥時代)
大野城跡(国指定特別史跡)
665年(飛鳥時代)
前回は宿敵・Dスラーがいろいろ言っておったようじゃが、Dスラーはいつの間に親地球派になりおったんじゃ。
わしは早くに死んでしまったのでちっとも知らなかったよ。
おっと、失礼。
今週のミステリーハンター、宇宙戦艦ヤマトの初代艦長・O田十三じゃよ。
さて、ガミラスじゃなかった、唐の侵攻を恐れた我々ヤマト軍は、西の拠点を内陸に移し、防衛線を築いた。
それが水城(みずき)や大野城(おおのき)だったことは、Dスラーも言っていたとおりだ。
今日はその防衛線がどんなものだったのかを見てみよう。
まずは水城だ。
水城は御笠川の上流、福岡平野がくびれ状になった国分丘陵(東側/太宰府市?)吉松丘陵(西側/春日市?)との間を結ぶ土塁で、高さは約9m。
土塁の前後に濠を設けていたため「水城」と呼ばれ、外側、つまり博多側の濠は幅60m、水深4mにもなるから、これを越えて侵入するのは容易なことではあるまい。
今では濠はなくなっているが、田園地帯にこんもりした緑の帯が残っているので、水城の跡はすぐに分かる。
土塁の東西には門があって、東門の方は駐車場も整備されているので寄ってみるとよいだろう。
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地上からでも水城の様子がよく分かる。ここは東門跡の第2駐車場で、外濠にあたるところだろう。林の手前にある並木は桜か? |
※追記
桜でした。おまけに手前には菜の花が!('10年3月27日撮影)
こちらは太宰府側。土塁の下には内濠と外濠を結ぶ木製の水路が埋められていて、これはその様子を復元しているんではないかと思うのだが、特に何の説明もない。 | 第1駐車場の一角には東門の礎石が一つだけある。 |
東門の展望台より。土塁の太宰府側は幅の広い2段構造になっている。東門に交差する旧国道3号(現県道112号)はかつての官道にあたり、那津方面に延びていた。ちなみに西門は鴻臚館の方へ続いていた。土塁はいちばん高いところで9mあるという話なので、この展望台の方が実際の高さなのではなかろうか。 |
この水城、実際に敵を迎えることはなかったが、約600年後に思わぬ形で利用されることになる。
CMの後は、もう一つの防衛施設・大野城へ行ってみよう。
チャラチャチャ~
<CM>
大野城(おおのじょう)市の名前の由来ともなった大野城は、大宰府の北側、四王寺山にある山城で、亡命百済人の指揮によって造られた朝鮮式山城である。
山頂を囲んで総延長8kmに及ぶ土塁、石塁が築かれ、さながら“山の元寇防塁”といった様相を呈している。
おそらくこの山からは博多湾が見渡せるだろうし、ひょっとしたら遠く壱岐あたりで狼煙が上がっても見えるかもしれない。
もちろん眼下には水城や大宰府政庁を見下ろせる。
しかし、監視のためならここまで堅牢な防塁は必要ない。
守るべきは麓の大宰府政庁なのである。
山の上に籠っているうちに大宰府を攻められては何にもならない。
では大野城の戦略的意義は何なのか。
敵に攻め込まれたらみんなで山の上に逃げ込むのか。
いや、ワシが思うに、おそらく戦略上の要地を敵にとられないためであろう。
敵が水城を避けて山の上に陣を敷いたら、もう喉仏に刃をつきつけられたようなものだ。
矢を射降ろし岩を転がし坂を駆け下ってくる敵はとても止められるものではない。
だから大宰府の背後の山は是が非でも守らなければならなかったのだ。
とにかくその山城の様子を見てみよう。
四王寺山一帯は、現在は県民の森として整備されている。ここは炭化米がたくさん見つかることから焼米ヶ原(やきごめがはら)と呼ばれる、山頂付近の開けたところ。歩道のようなところが土塁跡で、右側は急な傾斜になっている。あまりに整った土塁だと思ったら、平成15年の集中豪雨で土砂崩れしてしまったところを、築城当時の工法で修復したらしい。 |
焼米ヶ原の木立の方(尾花地区)では高床式倉庫跡と思われる礎石が10棟分見つかっている。兵糧や武器の倉庫として使われていたのだろう。 |
土塁から見た大宰府方面。ここからは政庁あたりは山陰になって見えないが、辛うじて観世音寺の宝蔵や戒壇院の屋根は確認できる。 正面は天満宮・九国博方面。こうしてみると九州国立博物館はかなり大きな建物だ。 |
焼米ヶ原を谷側に降りていくと、鬱蒼とした茂みの中に大宰府口の城門跡がある。門の礎石には「踏まないでください」と注意書きがあった。 | |
外側から見た城門跡。左側は石塁になっている。 |
こちらは大宰府口のほぼ反対側の宇美町側にある百間(ひゃっけん)石垣跡。この石垣の奥からなら博多湾の方を望めるのかもしれない。 |
大野城はなんと日本の名城百選に選ばれている。
中世の整った城ばかりが城ではないということか。
また、大野城とともに大宰府の南、基山あたりには基肄城(きいじょう)が築かれ、これらの防衛施設や壱岐・対馬には防人(さきもり)が配された。
さらに、山口県の長門城をはじめ、瀬戸内海沿岸にもいくつか山城が設けられて、一応防衛網は完成するのである。
地球か…。
何もかもがみな懐かしい…。
水城跡
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福岡県太宰府市水城・国分・吉松
大野城市下大利・旭ヶ丘
春日市昇山・天神山
(東門跡:太宰府市国分2)
見学自由
駐車場:あり
大野城跡
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福岡県太宰府市・大野城市・宇美町
(大宰府口城門:太宰府市大字大宰府字岩谷)
見学自由
駐車場:あり
関連スポット
●九州国立博物館(おまけ5)
●九州歴史資料館(おまけ5)
●大宰府展示館(その9)
(つづく)
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