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雑感録

福岡なるほどフシギ発見~その9~ 最終防衛ラインに生まれた西の都

  
雨降って地固まる?
対大陸外交で定まった倭の国内体制


大宰府政庁跡(国指定特別史跡)
664年ごろ~12世紀ごろ(飛鳥時代~鎌倉時代)

ふっふっふっふ…。
ヤマトの諸君、また会えたね。
今週のミステリーハンター・ガミラスの総統・Dスラーだよ。
さて、6世紀も終わり頃になると、聖徳太子が登場。
600年(公式?には607年)からは中国の国家体制を調べるために遣隋使・遣唐使も始まり、645年には大化の改新も行なわれるなど、徐々に律令国家としての中央集権の体制づくりが進んでいく。
ということは、このあたりから、古墳時代から飛鳥時代、ヤマト王権から大和朝廷と呼称を変えていってよろしいのかな。
ピシッと線引きがある訳ではないのでよく分からないが、そもそも私が子どもの頃にはヤマト王権なんて名前は習ったこともないし、当時の人たちが自分たちはヤマト王権だとか今日から我々は大和朝廷だとか名乗っていた訳でもなかろう。
私にとっては、今も昔もヤマトの諸君はヤマトの諸君ということだよ。

話がそれてしまって申し訳ない。
遣隋使・遣唐使(の初期?)は那の津から出港、帰港していたそうで、博多リバレインにあるホテルオークラの脇には「渡唐口跡」という小さな碑が建っている。
那津官家も筑紫館(つくしのむろつみ)などとも呼ばれ、外交拠点としての役割も重要なものになっていったことと思われる。
「渡唐口跡」の碑は、博多リバレインの敷地にたたずむ菅公ゆかりの鏡天満の鳥居の横にある。ちなみに「渡唐口」という名称は、後に太閤町割で定められた七口の一つ(他に浜口、蓮池口など)。
たったこれだけの小さな石碑。碑文にある「袖湊(そでのみなと)」とは、後に平清盛が日宋貿易のために改修・整備したという日本初の人工港のこと(実在しないという説も)。「冷泉津」とは、鎌倉時代にこの辺りで揚がった人魚を見物しに勅使として訪れた冷泉中納言に因んだ地名だと思われる。
「渡唐口跡」の碑の前は博多川。現在の港はここからおよそ1.5~2kmくらい下流にある。

この間、朝鮮半島は三すくみ状態にあった新羅が唐と連合し、660年、ついに百済を滅ぼした。
同じ故国を失ったものとして、その痛みは私にもよく分かるよ、ふっふっふ。
私が白色彗星帝国に身を寄せたように、百済の残党は同盟国である倭に救援を要請。
この事態に、ヤマトの諸君は百済救済を決定し、人質として倭国に滞在していた百済王の太子・豊璋王(ほうしょうおう)を百済に返し、遠征軍を編成した。
遠征軍を指揮するために自ら筑紫国朝倉宮に乗り込んだ斉明天皇(中大兄皇子=天智天皇の母)は出陣前に崩御したが、難波に戻った中大兄皇子は倭・百済連合の3軍を半島に派遣。
反攻作戦により一旦は失地回復に成功するものの、663年、有名な白村江(はくすきえ)の戦いで大敗を喫し、多くの百済の亡命者を連れて撤退した。
勢いに乗じて唐・新羅連合が倭国を侵攻することを恐れたヤマトの諸君は、那津官家の主な機能を内陸に移転。
あわせて水城、大野城など防衛体制も整えられた。
これが大宰府の成り立ちである。
前置きが長くなってしまったが、これくらい言っておかないと福岡人ですら(なんちゃって)「ダザイフ」と聞いても宰府天満宮や梅が枝餅しか思い出さないのでね。
ちなみにヤマトの諸君はよほど唐・新羅連合が怖かったのか、難波にあった都まで内陸の近江に移し、唐とは全面的に条件を飲んで和平を結んだらしい。
さて、CMの後は実際に大宰府政庁跡に行ってみるとしよう。


チャラチャチャ~
<CM>


大宰府政庁跡は都府楼跡とも呼ばれ、東西100m、南北200mの広大な敷地に建物の柱を支えていた440の礎石が発掘された位置に並んでいるので、その配置を見ればどのような建物だったのかが平面図的に分かる。
ただし、政庁の建物は2度建て直されていて、今ある礎石は941年に藤原純友の乱で焼き払われた後に再建されたものの跡らしい。
最初に創建された時は、礎石を使わない掘立柱という構造だったという。
ちなみに今ある礎石は全部が実際に使われていたものという訳ではなく、石垣や庭石用に持ち去られたものも多いとか。
ボランティアガイドのおじさんによると、黒田の殿様が礎石を戻せ令を出したこともあったらしい。
白っぽくて妙に形の整った礎石がレプリカだそうで、礎石の下に敷かれる小石(根石)の場所をもとに配置されているとのこと。

2011.8.18追記
近年、第I期大宰府政庁こそ斉明天皇が遷都した朝倉橘広庭宮の跡ではないかという説があるらしいです。

2012.12月追記
大宰府の正面に延びる朱雀大路沿いに、客館と思われる建物跡が発掘されました。

正殿跡には3つの石碑がある。まん中は「都督府古趾」とあるが、あとの石碑は漢字が山ほど刻んであって訳が分からぬ。

南門跡からみた大宰府政庁跡。

大宰府政庁からはまっすぐに朱雀大路という極太の大通りが延びていた。基本的には都の都市設計と同じらしい。柿食えば鐘が鳴るなり都府楼跡。ちなみに国宝の鐘がある観世音寺(天智天皇が母・斉明天皇の菩提を弔うために創建したといわれる)はこの東の方にあって、毎月18日の観音会でその音が聞けるらしい。

西側の一角には色鮮やかな紅葉が。春には桜も美しいらしい。
確かに花見会場になっていた('10年3月27日撮影)


政庁跡の東側には、素濠溝や玉石溝などの発掘遺構をそのままの状態で保存・展示するある大宰府展示館(太宰府市)がある。
ほかにも周辺の観世音寺、筑前国分寺の出土品や復元模型などを展示しているのだが、大宰府や周辺の出土品などはここ以外にも九州歴史資料館(県立)、九州国立博物館などに分散していて、見る側にとっては不便極まりない。
どこか一カ所にまとめてくれればよろしいのだが…。
観光地らしく記念撮影用のパネルがある大宰府展示館。右の赤い柱は礎石に柱が乗ってる様子を表した模型。

史跡と同じIII期の大宰府政庁模型(大宰府展示館パンフレットより)。礎石の上にはこういう建物があったと考えられている(写真では南門の影になって中門が見えてないが)。ちなみに九州歴史資料館には中門の1/10模型が、九州国立博物館には南門の1/10模型(全体の1/100模型も?)がある。


大宰府はご存知の通り遠の朝廷(とおのみかど)とまで呼ばれ、西海道(九州の9国)を統括する都として栄えるが、その後大宰大弐となった平清盛(おそらく現地には赴任せず)が、前述の通り日宋貿易のために袖湊を整備し拠点を博多に移したために徐々に衰退。
盛者必衰の理(ことわり)は、平家や大宰府に限らず、宇宙全体の真理のようだね。
ふっふっふっふ。

とにかく、太宰府天満宮へはたいてい電車で行くことと思うが、その際はぜひレンタサイクルを借りてこの辺りまで足を伸ばしてもらいたいものだ。
コミュニティバス「まほろば号」でもすぐ行ける。
小難しいことは置いといても、気持ちのいい散策コースだよ。
はっはっはっは。

大宰府政庁跡

大きな地図で見る

福岡県太宰府市観世音寺4-6
見学自由
駐車場:あり

●大宰府展示館
福岡県太宰府市観世音寺4-6-1
電話:092-922-7811
開館時間:9:00~16:30
休館日:月曜(祝日の場合翌日)、12月28日~1月4日
入場料:2010年7月1日より無料になったそうだよ
駐車場:あり
http://www.kotodazaifu.net/i03/i03.htm

関連スポット
九州国立博物館(おまけ5)
九州歴史資料館(おまけ5)

つづく

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