博多は貿易の利権を狙って支配権争いが繰り広げられ、度々戦火にみまわれてきたのだが、特に室町時代から戦国時代にかけては、いつ誰がどう支配していたのか、細かいところがよく分からない。
よく分からないけど、分からないなりに整理しとかないと先に進めないので、とりあえずまとめてみることにします。
冗長になるとは思いますが、どうかご了承を。
鎌倉時代まで
とりあえず平安時代までは、大宰府の支配下にあったものと考えてよろしかろう。
自らすすんで大宰大弐という官職についた平清盛は、貿易のために袖の湊を整備。
鎌倉時代には残存する平家勢力をおさえる目的で武藤氏が九州に送り込まれ(いわゆる下り衆)、武家ながら大宰少弐となって姓も少弐と改めている。
少弐氏は筑前国の守護も務め、元寇の際には総大将として奮戦。
このころの九州の主な勢力は
少弐:福岡県(筑前)代表
大友:大分県(豊後)代表
島津:鹿児島県(薩摩)代表
菊池:熊本県(肥後)代表
という感じで、そのうち大友、島津は少弐氏同様の下り衆である。
元寇後は北条家による支配を強化するために鎮西探題が設けられ、これによって九州の政治の中心も大宰府から博多へと移っていった。
鎌倉幕府が滅びる1333年(鎌倉時代末期)、菊池武時は当時櫛田神社の近所にあった探題館を攻める際に博多の町に火を放っており、その2カ月後に少弐、大友が鎮西探題を滅ぼした時にも博多は大火事に遭い、櫛田神社も焼失している。
大友氏は鎮西探題を倒した功で沖の浜(息浜/おきのはま)を与えられ、これによって、博多は基本少弐氏の支配下にありながら、貿易拠点のおいしいところは大友氏が治めるという状態になる(沖の浜だけが博多の貿易港だった訳ではないが)。
ちなみに大友氏は1330年頃、元寇の守備担当エリアの関係で滞陣していた香椎の奥にある立花山に立花(山)城を築いていて、これが後々いろんな場面で登場することになる。
(大友氏は西部の志摩のあたりも、元寇の恩賞として領有している)
沖の浜は現在の奈良屋町、下呉服町、綱場町、中呉服町あたりの昭和通りを囲む一帯にあったらしい。現在、ほとんどその名残をとどめる物はないが、唯一、博多小学校には沖の浜の元寇防塁と思われる石塁跡があり、地名では古門戸(こもんど)町の沖濱稲荷(写真)や下呉服町の沖浜恵比寿にその名を残すくらいである。 |
九州の南北朝統一と少弐vs渋川・大内連合
1371年(南北朝時代後期)、菊池氏の庇護を受けて大宰府まで勢力を延ばした懐良親王(かねながしんのう)の征西府を倒すため、八代目九州探題・今川貞世(さだよ/了俊(りょうしゅん)は没後の法名)は大軍を率いて九州に上陸し、大宰府を奪回。
少弐氏に代わって(取り上げて?)自ら筑前の守護となった今川貞世は、さらに、菊池氏討伐のために大友、島津、少弐に協力を依頼したが、島津氏久が労を取って参戦させた少弐冬資(ふゆすけ)を今川貞世は信用せず暗殺してしまい、島津、大友の反感を買ってしまう。
幕府を通じて大内氏に援助を依頼した今川貞世は1392年(南北朝時代末期)に九州の南朝勢力を押さえ込むことに成功するが、大内・大友の讒言もあって、間もなく失脚する。
以後、九州探題は渋川氏の世襲になり、大内氏がそれを補佐。
守護職は少弐氏に戻り、渋川・大内と仁義なき戦いが続いていく。
1397年(室町時代※前期)、少弐貞頼は大内・大友と結んだ渋川満頼(みつより)に大宰府を奪われる。
※ここでは“広義”の「室町時代」(足利尊氏~義昭)から前期の南北朝時代(1336~1392年ごろ)と後期の戦国時代(1493~1573年ごろ)を除いた、“狭義”の「室町時代」を指します。
1399年、中国地方や紀伊半島西部など守護大名(室町時代の守護は、文字通り領地を“守護”していた鎌倉時代と異なり、“領有”もしていた)として強大な勢力を築いた大内義弘は、これを警戒した三代将軍・足利義満に背いて堺で討ち死に(応永の乱)。
これによって大内氏が衰退すると少弐氏は攻勢に転じ、1423年、少弐満貞(みつさだ)は九州探題・渋川義俊を攻めて博多から追い出した。
渋川義俊は大内氏に助けを求め、1425年、今度は少弐満貞が渋川義俊・大内盛見(もりみorもりはる)に攻められて、再び博多を追い出される。
これによって、筑前守護職は大内氏の手に渡ってしまう。
大内vs大友・少弐連合
朝鮮との通交にも力を入れていた大内氏は、1428年(室町時代中期)に朝鮮から九州を総領(支配?)するといわれたとか(「支配するだろう」と予告されたのか、「支配した・支配している」と状況を認められたのか…)。
こうした中、1429年、室町幕府は筑前国を直轄領にし、大内盛見を代官とする。
一方、大友氏も朝鮮に使者を送って博多支配を宣言(実際は沖の浜だけのはずだけど)し、日朝貿易を推進。
その為か非ぬか大内氏と大友氏は敵対するようになり、1431年、大内盛見は大友氏の立花山城を攻略。
しかし、さらに西に兵を進めたところで大友・少弐連合に打ち取られてしまう。
大友氏が志摩支配の拠点とした思われる柑子岳城(こうじだけじょう)のあった柑子岳。大内盛見を打ち取ったのは深江(現在の糸島市二丈)あたりらしいので、この戦いでも重要な拠点となったのではなかろうか(あくまで推測)。 |
1433年、大内盛見の跡を継いだ大内持世(もちよ)は少弐氏を蹴散らし、当主の少弐満貞は敗死。
子の少弐教頼(のりより)らは対馬の宗氏のもとに逃れるが、この少弐教頼はどういう訳か六代将軍・足利義教(よしのり)となじみがあり、筑前守護に返り咲き。
1445年、大内教弘(のりひろ)は少弐氏討伐の名目で、なぜか大友氏の立花山城を攻め落とし、大友、少弐は博多から撤退する。
1467年に応仁の乱が始まると、大内政弘(まさひろ)は西軍に加わるために上洛。
この虚をついて大友氏は立花山城を奪還。
少弐氏も勢力回復を図るが、大内勢の反撃に遭い、少弐教頼は高祖城(たかすじょう。もともと原田氏の居城だが、一時的に少弐氏が奪っていたらしい)で自刃。
しかし、息子の少弐政資(まさすけ)が博多を回復する。
1478年(文明10年)、応仁の乱が終わると大内政弘は再び博多に入り、少弐勢力を追放。
博多は大内氏と大友氏の支配下となる。
それにしても不思議なのは、ここまで蹴散らされたり取り返したりしてるのはほとんどが少弐氏で、連合してるはずの大友氏は、立花山城は何度かやられているが、沖の浜を奪われたという事実は出てこない。
筑前国にこだわることなく沖の浜だけにしていたのが良かったのか、単に私が調べた資料に出てこなかっただけなのか…。
戦国時代、大内氏の盛衰と大友氏の支配
1493年、第十代将軍・足利義材(よしき)に対するクーデター(明応の政変)で幕府が弱体化すると、世の中は戦国時代へと移っていく。
このころ、大内政弘は博多商人を保護し、明や朝鮮との貿易で莫大な利益を得、勢力を蓄えていた。
その跡を継いだ大内義興(よしおき)は、現在の須恵町にあった高鳥居城に守護代・杉氏を置いて筑前支配を強化。
1497年(戦国時代前期)には少弐政資・少弐高経親子を肥前に追い込んで滅ぼし、龍造寺氏ら家臣や大友氏の助けを受けて少弐氏を再興した少弐資元(すけもと)をも執拗に攻め続ける。
1528年(戦国時代中期)に家督を継いだ大内義隆(よしたか)は、1530年に九州に出兵し、引き続き大友や少弐と対立。
1532年には逆に大友氏と少弐氏が大内領に攻め入るなどもしているが、大内義隆は「少弐」より偉い「大宰大弐」になるなどあの手この手を使い、1536年に少弐氏勢力を完全に潰えさせ、大友義鑑(よしあき)とは1538年に和睦を結んでいる。
大内義隆は筥崎宮を再興するなど博多の商人、寺社と関係を深めていたが、やがて尼子や毛利などを相手に本拠地・中国地方の攻防に専念せざるを得なくなり、1551年(戦国時代後期)には下克上の代名詞として有名な家臣・陶晴賢(すえのはるかた)の謀反で自害。
勘合貿易もこれにて断絶する。
須恵町歴史民俗資料館から眺める若杉山の尾根(岳城山?)。このあたりに高鳥居城があったと思われる。 |
大内氏の後、博多の町はキリシタン大名・大友宗麟(そうりん。1562年までは義鎮(よししげ))により統治され、1559年(戦国時代後期)に大友宗麟は幕府から九州探題と筑前守護に任命されている(へろへろの幕府の任命にどれだけ効力があるのか不明だが)。
しかし、大内氏に代わって中国地方で台頭してきた毛利元就も博多の支配を狙い、毛利氏と通じていた筑紫なんとかいう筑前の国人衆(豪族みたいなもの?)が博多を襲撃。
住民の防戦空しく1万軒が焼失したとか。
その後もたびたび毛利絡みの立花城攻防戦が行なわれている。
1563年には宝満城の高橋鑑種が毛利と内通して反乱を起こし(永禄の亥年の乱劇)、この時の戦火で聖福寺も被災したとか。
1568年に起きた立花山城の謀反では(立花山は重要拠点な割にはやたら寝返りや反乱が起きるなあ)、毛利が絶好のチャンスとばかりに援軍を送り込むが、大友勢は戸次鑑連(べっきあきつら。のちの道雪)らがこれを奪回。
しかし、毛利も吉川元春(元就次男)、小早川隆景(元就三男)らを送り込むとともに、肥前の龍造寺隆信と連携して、大友方への圧力をかけると、翌1569年には立花山城に攻めかかり、立花山城は再び陥落して毛利氏の手に落ちてしまった。
立花山城を奪われた大友勢と吉川元春ら毛利勢は、ついに立花山城南の多々良浜で対峙。
これが足利尊氏挙兵以来の第二次多々良浜合戦(「第二次」は勝手につけました)である。
この戦いはほとんど両者にらみ合ったまま半年も続き、最後は大友氏の謀略で毛利領内で大内氏の残党が蜂起、尼子氏の残党も挙兵したため、毛利勢は撤退を余儀なくされる。
この戦いによって、博多はほぼ全土が焼失。
当時の宣教師の記録によると、1570年頃の博多の町は森林のごとく荒廃し、人の住む家は20戸ぐらいしか残ってなかったとか。
博多商人の多くは肥前に疎開していたらしい。
多々良浜の戦いの後、大友宗麟は家臣の戸次道雪改め立花道雪を立花山城城主とし、吉弘鎮種(しげたね)改め高橋紹運(しょううん)に大宰府裏手にある岩屋城と宝満城を与え、筑前の備えを固めた。
大友宗麟は、当時那珂川の支流で、度々氾濫していた比恵川を直接博多湾に流れ込むよう、大規模な治水工事も行なっている(石堂川=現在の御笠川)。
比恵側の跡は房州堀と呼ばれる堀になりなり、南側の備えとなったらしい。
しかし、皮肉なことに、博多を治めた頃から大友氏は衰退への道を進んでいくのである。
住吉神社の「博多古図」の説明板で見ると、比恵川は冷泉津に注いでいる。ちなみに左下には沖の浜、袖の湊も描いてある。 |
※長過ぎてブログの文字数制限にひっかかってしまったので、この続きは後編で。