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雑感録

福岡なるほどフシギ発見~番外編~ 糸島半島で古墳のハシゴ

 
井田原開古墳:現地説明会を開催 来月3日、糸島市教委 /福岡(6月30日 毎日新聞)
 糸島市教委は3日午前11時から、同市志摩井田原で、長さ約90メートルの前方後円墳と確認された「井田原開(いだわらひらき)古墳」の現地説明会を開く。
 同古墳は出土した埴輪(はにわ)などから約1600年前に築造された、当時の首長墓と推定されている。市教委は5月から発掘調査を実施。地山を削り形状を整えていることや、出土した葺石(ふきいし)の状況から後円部は3段、前方部は2段の構造だったことなどが判明した。市教委文化課(092・332・2093)。
〔福岡都市圏版〕


ということなので、こりゃ行ってみようと思って場所の確認なんかをしていたら、

元岡古墳群で新方墳 「圭頭大刀」が出土 ヤマト王権から下賜か 福岡市教委発表 「軍事拠点」裏付け? (7月2日 西日本新聞)
 福岡市教委は1日、西区の元岡桑原遺跡群の元岡古墳群で、7世紀初頭の有力豪族の墓である新たな方墳が見つかり、ヤマト王権から下賜されたと考えられる、柄に金銅が装着された「装飾付圭頭大刀(けいとうたち)」など、約120点の副葬品が出土したと発表した。
 圭頭大刀(長さ約90センチ)は1本で、高度な冶金(やきん)技術が用いられ、銅に金を張り付けた装飾がある柄の部分が特徴。黒漆に金箔(きんぱく)が施されたさやも、一緒に出土した。
(中略)
 市教委は、3日午前10時-午後1時に発掘現場(西区元岡2942)で、副葬品を含めた市民向け現地説明会を開く。現地事務所=092(806)2393。また、6日-8月1日、博多区の市埋蔵文化財センターでも副葬品速報展を行う。
※文中の〓は「竹」かんむりの下に、左が「金」、右が「碌」の右側部分


なんてニュースも飛び込んできた。
ありゃま、3日は現地説明会のバッティングじゃん、と思いながら、断続的にどしゃ降りになる中をとりあえず時間の早い元岡の方へ。

発見された古墳は7世紀初頭(飛鳥時代)のものと考えられるそうで、この時期は前方後円墳などのやたら巨大な墓を造って威張っていた(といっても威張るべき人は墓の中だけど)時代はすでに過ぎていて、この古墳は一辺が18mほどの方墳(四角形の古墳)。
それでもこの時代、このエリアでは最大級の大きさだそうで、円墳主流のエリアで方墳というのも特異なんだとか。
ちなみにこの古墳は元岡古墳群G1号墳とかいう競馬みたいな名前で呼ばれているそうだけど、このあたりはやたらと古墳が見つかっていて、それをひっくるめて元岡古墳群、今回の発掘エリアがG群、そこで4つの古墳が見つかっていて、そこの1号墳ということらしい。

元岡古墳群G1号墳の説明風景。後述のように結構な副葬品が発掘されたので、後でちゃんとした古墳名がつけられるかもしれない。でも、もしかしたら調査が済んだら埋め戻されるかもしれない。

畑の造成などで墳丘や石室の天井部分はなくなっていたそうだけど、石室の下の部分が残っていて、一部盗掘の跡はあったけど、玉類やら金メッキや金製の耳環(ピアスみたいなの)やらかなりの数の重要な副葬品が残っていたそうです。
そんで、その中でも特に肝心なのが、上の新聞記事にも出ていた装飾付圭頭大刀
「圭」ってのは、よく分からんけど中国で祭事に使われた道具のようなもので、形は説明するのも大変なんだけど、要は下の写真のようなもの。
それに金などの装飾がほどこされているもので、同様な太刀が全国で見つかっていて、その中でも今回の太刀は状態のいいものらしい。
ヤマト王権が軍事的関係をもつ地域の有力者に象徴として与えたものと考えられていて、7世紀初頭といえば、日本書紀には602年に聖徳太子の弟・来目皇子(くめのみこ)が朝鮮出兵のために2万5千の兵を率いて嶋(志摩)郡に駐屯したという記述があるので、想像を逞しくすれば、来目皇子の軍隊に参加したこのあたりの軍隊の長が、来目皇子から与えられた太刀なんてことも考えられますけどね、と説明員のおじさんが言っておった。




上が装飾付圭頭大刀。下がその圭頭部分。玄室の壁石ぎわから5本まとめて出てきた太刀のうちの1本だったそう。なお、今回の発掘品は7月6日から8月末まで福岡市埋蔵文化財センターで展示されるとのこと。

こちらは同じ玄室から出てきた矢の束で、もう少し掘らないと取り出せないらしい。矢がよくまあ腐らずに残っていたもんだと思ったら、これは鉄製の(やじり)ですと言っておられた。鏃ってのは矢の先っぽについてるもんだと思っていたが、違ったのかなあ。

見学者の中に、発掘作業を手伝った地元のおばちゃんたちがいて、「来目皇子」と聞いて、「ほら、この前、車で行ってきたろう。アレよ」などと話していた。
たぶん糸島半島のどこかに来目皇子ゆかりの史跡でもあるんだろう。

※追記
後に見つかったG6号墳でも重要な発見がありました


ひと通り見聞きしたところでまだ11時前だったので、井田原開古墳に向かう。
同じ行動をとる車が何台かいたところを見ると、さすが糸島の人たち(実際そうなのかは分からんが)、古墳好きが多いようだ。

で、この井田原開古墳。
存在と90m級の古墳であることは以前から知られていたのだけど、今回の発掘調査での大きな成果は、どうも規模が90mほどで間違いないと確認されたことぐらいだったようだ(専門的にはもっといろいろあったのかもしれないけど)。
なにしろ、昭和40年代のみかん畑の造成で、すでに後円部の半分以上が削られていて、主体部(石室など)も失われており、今回試掘した部分でも、古墳の表面を覆っていた葺石もかなり持っていかれていたとのこと。
元岡でいいもん見せてもらった後だけに、となりのおっちゃんなんか「こっちはちょっとがっかりでしたねえ」なんて話しかけてくる(同感です)。
それにしても、思ったほど葺石がなかったという話を聞いて、「うちなんか掘ったら石がゴロゴロでてきますよ」という人もいるぐらいだから、やっぱり糸島、庭を掘れば遺跡が出るという土地である。

前方部から見た井田原開古墳。奥のこんもりしたあたりが後円部。
後円部の試掘場所。見えてる石がいわゆる葺石。

発掘された円筒埴輪の破片。古墳のテラス部分(階段状の水平なところ)に並べられていたもの(のはず)。

この後、志摩歴史資料館(今年1月に市町村合併で「糸島市」になるまでは志摩歴史資料館だったはず)に寄ってみたんだけど、縄文時代からの資料を展示する民俗資料館って感じだった。
井田原開古墳の円筒埴輪も展示してあったが、これが復元した本物なのかレプリカなのか分からないが、70~80cmはある立派なものだった。
入口の館名は、かつて「町」があったと思われるところが市のマークか何かで隠されていたぞ。

で、帰りに入口脇の志摩MAPを何気に見ていたら「来目皇子の墓跡」とあるではないか。
これがおばちゃんたちが言っていたアレか!と思って、細かい道は省かれている雑把な地図なんだけど、だいたい見当をつけて行ってみた。
ちなみに来目皇子は志摩に滞在中に病気になって朝鮮出兵を果たせぬまま薨去(こうきょ)している。
遺骸は周防まで運ばれて殯(もがり。仮の埋葬みたいなものか?)され、最終的に河内に葬られた(塚穴古墳ということになっている)が、亡くなった志摩の地に地元の人がお墓を造ったとしても不思議ではない。
来目皇子の墓跡があるのは久米という地区のようだけど、来目皇子に因んだ地名に違いない。

そういう訳で久米地区まで行って「来目皇子の墓跡 この先850M」という案内板までは見つけたんだけど、そこからどこをどう行っていいのかさっぱり分からず、結局断念してしまいました。
帰ってからネットで調べてみたりもしたんだけど、あまりメジャーではないというか、相当マイナーな史跡のようで、なかなかこれぞというのが出てこない。
やっと見つけたのがこちら
また機会があったら行ってみようっと。

元岡古墳群G1号墳
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福岡市西区大字元岡

井田原開古墳
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糸島市志摩井田原開

志摩歴史資料館
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糸島市志摩初1
開館時間:10:00~17:00(入館16:30まで)
休館:月曜(祝日の場合は翌平日、年末年始)
入館料:一般210円
駐車場:あり
http://www.city.itoshima.lg.jp/soshiki/33/shimareki.html



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