香椎宮
725年(奈良時代)
西暦199年、日本武尊(ヤマトタケル)の息子である仲哀(ちゅうあい)天皇は熊襲征伐のため九州に行幸。
儺県(なのあがた)の樫日宮(かしいのみや)に陣を構えるが、そこで神功(じんぐう)皇后にスミヨシタロスが憑依し、西にある宝の国を授けると告げられる。
しかし仲哀天皇は「んなこと言われても、西は海ばっかりで国も何にも見えまへんで」といって取り合わず、スミヨシタロスの逆鱗に触れて急死する。
神功皇后は祠を建てて御霊(みたま)を祀り、遺志を継いで熊襲を平定。
翌200年にスミヨシタロスの神託に従って、臨月であるにも関わらず男装して朝鮮に出陣。
朝鮮の新羅(しらぎ)、百済(くだら)、高句麗(こうくり)を傘下に収め、凱旋後に宇美で後の応神天皇を産み、志免でお紙目を代えた…。
というのが日本書紀に記された神功皇后の三韓征伐のあらましとされているものをテキトーにまとめたものである。
昔はこれが時代こそ誤っているが、広開土王碑などに記された謎の4世紀ごろの日本と朝鮮半島の状況を表しているものとして、秀吉の朝鮮出兵や明治の征韓論、韓国併合の大義名分にされたそうな。
現在では神功皇后については実在性の低い人物とされていて、卑弥呼(または後継者の臺與)あるいは九州に行幸した斉明天皇をモデルに創作されたという説もあるようだ(ちなみに仲哀天皇に至っては、実在性の低い日本武尊や神功皇后が実在したという辻褄合わせのために創作されたとまで言われている)。
まあ、福岡には宇美や志免に限らず神功皇后ゆかりの地名というものがあまりにも多いので、一概に架空の人物と決めつけてしまうのもどうかと思うのだが、そういう各地の伝説を繋ぎ合わせて一人の伝説の人物を作り上げてしまうというのは洋の東西を問わずありがちなことなので、何とも言い難いところである。
仲哀天皇が本陣を置き、崩御の際に神功皇后が祠を建てたとされるのが香椎宮の奥にある古宮。
後にジングウタロスの神託で725年に建てられた神功の宮が香椎宮本体。
二つあわせて香椎廟ということらしい。
天皇の霊を祀るお宮なので、香椎宮には今でも10年に1度、勅使が訪れるのだとか(次回はどうも平成27年らしい)。
伝説の真偽はともかく、由緒正しい神社なのである。
香椎宮本殿から100mほどの、裏の鳥居を出たところにある古宮跡。
(左)古宮にある神木香椎。香椎宮の神木は綾杉なので、こちらは古宮の神木ということだろうか。仲哀天皇の棺を掛けたところ異香が漂ったので香椎と呼んだそうだが、文面だけ見れば、それ遺体の腐敗臭じゃないんかいなという気もする。
(右)古宮の丘のてっぺんにある仲哀天皇大本営跡の碑。
(左)古宮跡から5分ほど歩いたところにある武内屋敷跡。仲哀天皇を含め前後5代の天皇(プラス神功皇后)に仕えたといわれる武内宿禰が樫日滞在中に住んだという屋敷の跡らしい。宿禰は300年以上生きたとされているが、なんか今でも住んでるんじゃないかという雰囲気だなあ。
(右)武内屋敷跡の脇にあり、宿禰が掘ったという井戸・不老水。水汲みに来た人が並んでいる。
これが名水百選にも選ばれている不老水。最近は水量が減ってきたらしいが、香椎宮創建以来、毎年正月に朝廷に献上されているとのこと。
武内宿禰ハ聖水ヲ汲ミ仲哀天皇ニ奉献スルノ図
香椎宮の拝殿(手前=このページのトップの写真)、幣殿(中央)、本殿(奥)。本殿は日本唯一の香椎造りという建築様式だそうだが、何をもって香椎造りとするのかは私の知るところではない。現在の本殿は1801年に黒田長順によって再建されたもので、国の重要文化財。拝殿、幣殿は1898(明治31)年に造られたものだそう。
ちなみに宝物類は社務所2階に展示されているが、巫女さんによると、現在無期限でお休み中とのこと。
香椎造りの御本殿。
格子の隙間から中を覗くと…。
階段が途中で切れたようになっているのは、ここに神様の車が横付けするためらしい。
神木の綾杉。神功皇后が凱旋したときに、鎧の袖につけていた杉の枝を植えたものだとか。
(左)勅使館。勅使が宿泊する建物らしい。
(右)勅使は植樹するのが慣例になってるようだ。石碑には「元治元年」(1864)とある。平成17(2005)年のものもあった。
香椎宮
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福岡市東区香椎4-16-1
駐車場:あり
寄り道スポット
●不老庵
やぶさめ通りにある蕎麦屋さん。店名は不老水にちなんだもので、かつて参道にあった名店(移転後廃業?)の冠を譲り受けたそうな。福岡そばの会の佐々木さん(元警官)がオーナーだけあって、年中ほのかに緑がかったまともな(旨い)生粉蕎麦をまともな(リーズナブルな)値段で食べられるよ。 |
おまけのおまけ
平尾八幡宮
ウチの近所にある平尾八幡宮にも、先述の通り神功皇后関連のいわれがある。
由緒書きによると、このお宮はもともと「旧平尾村の南へ五町(550m弱)ほど高宮村側に寄った場所」にあったそうで、そこは仲哀天皇、神功皇后が那の大津に上陸して小憩したところなのだとか(当時の平尾は博多湾に突き出した岬の根元あたりにあって、東が冷泉津、西が草香江という場所だったらしい)。
秀吉も朝鮮出兵の際にこの伝説にあやかってこの地を訪れたそうで、その地に祠を建てたのが起源ということになっているそうな。
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