服部英雄の『蒙古襲来』、四六判500ページ以上の大作をなんとかざっと読了。新書版240ページ強の『蒙古襲来と神風』との違いは『蒙古襲来と神風』が第一級史料『蒙古襲来絵詞』の“カミカゼ”に関する読み違えによる誤認識を正したもの。それに対し、『蒙古襲来』も『蒙古襲来絵詞』をベースとしながら、宗教色の強い『八幡愚童記』を徹底して廃し、『勘仲記』や『関東評定伝』、『高麗史』や『元史』、さらには信頼が置けそうとあれば『張成墓碑銘』(張成は宋より蒙古に降った武人で、と言っても江南軍ではなく東路軍に部隊長格で参加し、志賀島、連絡隊として壱岐、鷹島と転戦し、その経歴が子孫によって墓碑に刻まれた)まで参照した総合的な元寇戦記。
なので、安直にこれまでの元寇に関する誤認識を改めるなら『蒙古襲来と神風』、元寇全般を新事実をベースに読み直すなら『蒙古襲来』がオススメだ。
だいたいは「その1」に書いてる通りなんだけど、『蒙古襲来』の方で注目すべき点は、
●文永の役の「塩屋の松」のシーンで「てつはう」の横で弓矢を射かける3人の蒙古兵は近年、後世の加筆・改竄であるという説が流布していたが、ここは大作「絵詞」の最後の仕上げで部分ごとに描き進められていた紙を貼り合わせる直前、最後に絵師の棟梁によって描き上げられたクライマックスシーンと考えられるのだとか。
●弘安四(1281)年旧暦6月8日、志賀島攻撃の傍で季長および肥後勢による能古島攻めが行われていた。
●6月29日〜7月2日ごろ、肥前国御家人(北条?)+薩摩勢で壱岐に反撃・勝利。しかし、この戦いで少弐資能が戦死(あるいはその時の疵が基で死亡)。資時も壱岐で討ち死に。
●7月27日、鷹島(沖?)で江南軍との激戦。
●竹崎季長が『蒙古襲来絵詞』に閏7月1日の台風のことを記さなかったのは、不必要だったから。「台風など来なくても、自分たち御家人の獅子奮迅の働きで蒙古を倒したのだから」というのが季長の(心の)主張。不運なことに、後世の歴史家に閏7月5日の志賀島決戦の絵詞を鷹島の掃討戦のものと読み違えられたため、“カミカゼのおかげ”と台風を不当評価されてしまった。
●閏7月1日の台風は日本船にも被害をもたらしたらしく、閏7月5日の志賀島決戦では季長が手配した船は待てど暮らせど訪れず、季長はよその船に乗せてもらって志賀島沖の戦場へと向かったらしい。
●江南軍の本質は増派・別働隊。一部の書物で屯田兵とも言われているが、未征服地・臨戦地での屯田・開拓はあり得ず、軍船に女性はいなかったらしい。
●戦後、かつて交流のあった南宋人は殺さずに奴隷にし、モンゴル人、高麗人、漢人はことごとく殺されたと云われているが、実際には職能で選別し、強制労働に従事させたと考えられる。
追記
9月2日放送のNHK「歴史秘話ヒストリア」で「蒙古襲来」をやってて、服部英雄氏がゲスト?として出てたけど、『蒙古襲来』で閏7月5日の志賀島決戦とされていた絵が、番組では鷹島沖掃討戦となっていた。自説を改めたのかな?
『蒙古襲来』に基づく弘安の役での進軍ルート。大きな地図で見る |
--CONTENTSへ--
蒙古襲来 服部英雄著 山川出版社2,592円 |