先日は企画中の「元寇本(仮)」の制作チームで、祖原公園の元軍麁原本陣跡と西南大構内の二重の石築地(移転復元)を見に行ってきた。
花見頃の祖原公園で井上さんと渋田さん。 |
ところで、元寇のいわゆる「カミカゼ」について、文永の役(1回目)では神風はなかったというのが今ではほぼ定説になってきてるけど、服部英雄九大名誉教授/くまもと文学・歴史館館長の著作を読んでいると、ほかにも認識を改めなきゃいけないところがたくさん出てきた。
この人が『蒙古襲来と神風〜中世の対外戦争の真実〜』(中公新書刊)を出版した時のインタビュー記事で「蒙古襲来に関心を持ったきっかけは?」との問いに
「文永の役では蒙古軍は1日で(博多から)帰ったことになっている。しかし日清戦争に従軍した陸軍少佐が、昼に戦争した万を超す軍隊が、その日のうちに船に戻ることなど不可能、数日はかかると断言していた。」と答えている。そこでまず、『蒙古襲来と神風』を読み直してみて、気になったところ。
●文永の役では博多襲来の前に鷹島を攻めたと言われてるが、これは『八幡愚童記』に依拠した誤り。壱岐から直接博多に来た模様。
●文永の役で文永十一(1274)年旧暦10月20日に博多に上陸した元・高麗軍がおよそ4万の兵と兵器・馬を積み込んで1日で帰るのは不可能。
※万葉歌から鴻臚館の場所を比定したことで有名な中山平次郎博士が「『八幡愚童記』は実録にあらず」と宣わったように、『八幡愚童記』は八幡神がいかに偉大な神であるかを愚かな童に諭す宣伝書。参考にしてもいいが、そのまま真に受けてはいけない。にも関わらず、「蒙古兵は(翌)朝にはきれいに退却して姿を消した」という『八幡愚童記』の記述を真に受けてしまったらしい。
※一方で、服部名誉教授は竹崎季長の『蒙古襲来絵詞』が「合戦に参加した御家人竹崎季長が、みずから指揮して絵師に描かせた絵巻である。合戦に参加した当事者による絵画史料だから、これにまさる史料はないし、これほどに良質な14世紀の史料が残されたことは世界的にも例がない。」と絶賛している。ただし、この第一級の史料の読み違えによって、永らく事実誤認されてきたところもある。
●「関東評定伝」(嘉禄元 (1225) 年から弘安七(1284)年にまでの鎌倉幕府の執権、評定衆、引付衆の任命と官歴を記したもの)によると旧暦10月24日に“大宰府合戦”が行われている。(これは『八幡愚童記』による「日本軍は博多を焼かれて、一旦水城の内側に撤退した」というのと関係あり? ただし、『蒙古襲来絵詞』にはそんな重要な合戦の記録はない。単に竹崎季長がその合戦に参加しなかっただけか?
二重に防塁が築かれた西南大の石築地。 二重で見つかってるのはここだけだけど、 もしかしたら土で造られた低い方の土塁は ここ以外では存在に気づかれなかっただけとか? 他の元寇防塁についてはこちらを参照。 |
●弘安の役では東路軍は志賀島の海戦後、一旦壱岐まで引き返し、遅れて出発した江南軍と合流するために鷹島沖に来たことになっているが、東路軍は江南軍と連絡をとるために壱岐→平戸と向かった連絡隊を除いて終戦まで志賀島を占拠しており、鷹島沖で台風に襲われたのは江南軍だけ。
●竹崎季長らが鷹島沖海戦に参加したというのは、史料『蒙古襲来絵詞』の読み間違い。これまで鷹島沖と思われていた絵図が実は志賀島・能古島沖で、弘安の役では竹崎季長は鷹島に行くことなくずっと生の松原の陣にいて、志賀島攻撃を続けていたらしい。閏7月1日の台風で志賀島の東路軍もそれなりの被害を受けたかもしれないが、最終的には閏7月5日の志賀島沖の決戦で元軍は敗北・退却している。(あんまり書くとネタバレ、悪けりゃ盗作になってしまうので、詳しくは『蒙古襲来と神風』を読んでください)
●鷹島沖の江南軍(+連絡係として来た東路軍の一部)も台風で全滅した訳ではなく、残存部隊は閏7月7日の掃討戦で敗北・退却。つまり、弘安の役では台風(カミカゼ)によるラッキーな面もあるにはあったが、半分以上は実力で蒙古を撃退したのである。
博多湾岸MAP(当時の海岸線) |
※参照「蒙古襲来」史跡めぐりマップの「博多湾沿岸の蒙古襲来関連史跡マップ(発行:福岡市博物館) |
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蒙古襲来と神風 中世の対外戦争の真実 服部英雄著 中公新書929円 |