見出し画像

テレサ・テン(鄧麗君、Teresa Teng)の残照

『私はチャイニーズです』

1989年という年は、日本では昭和から平成へと元号が変わる大きな節目になった年でしたが、同時に世界的に見てもとても大きな出来事が起こり、時代の転換点となりました。

まず、1989年1月7日には昭和天皇が崩御され、昭和という激動の時代が幕を下ろしました。
そして、翌1月8日に時代は平成へと移り変わったのです。

また、6月4日には、北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していたデモ隊に対し、中国人民解放軍が武力行使し、多数の死傷者を出した六四天安門事件が起こり、香港や台湾においても、この事件への抗議活動が活発化し、世界的な注目を集めました。

次に、昭和を代表する歌謡界の大御所「美空ひばり」さんが、6月24日に52歳という若さで亡くなられました。

そして、11月10日にベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツの統一、冷戦終結へと向かい、新しい世界の幕開けを象徴する出来事となりました。

最後に12月29日、日経平均株価が史上最高値38,957円44銭(同日終値38,915円87銭)を記録し、日本はまさにバブル経済の絶頂期でした。

このように様々な大きな出来事が多かった1989年でしたが、10月28日には、テレサの日本デビュー15周年を記念する『テレサ・テン十五周年スペシャル』の収録がTBSテレビのスタジオで行われました。

その中でテレサは、新曲「悲しい自由」を歌ったのですが、その冒頭、6月4日に起きた天安門事件に関するコメントを語っています。

以下は、その時のコメントです。

「わたしはチャイニーズです。世界のどこにいても、どこで生活してもわたしはチャイニーズです。だから、今年の中国の出来事すべてにわたしはこころを痛めています。中国の未来がどこにあるのかとても心配しています。わたしは自由でいたい。そして、すべてのひとたちも自由であるべきだと思っています。それがおびやーかされているのがとても悲しいです。でも、この悲しくてつらい気持ち、いつか晴れる。誰もきっとわかりあえる。その日が来ることを信じてわたしは歌ってゆきます。」…有田芳生著『私の家は山の向こう』 第四章 悲しい自由 P177 より

私がこのテレサのコメントを初めて聴いたのは、『テレサ・テン メモリアルTV ~今、甦るテレサ・テン~』というDVDの中に収録されている「悲しい自由」を見ていた時でした。とつとつと語る彼女の語り口や表情に、チャイニーズつまり中国系の人々への深い愛情が感じられるとともに、六四天安門事件が現実に起きてしまったことへのテレサの途方もない深い悲しみを感じたものでした。

深い慈愛の心があればあるほど、事件に伴う悲しみもまた深いものとなってしまうのです。

テレサの心情を想う時、「慈悲」という言葉に、なぜ「悲」という文字が入っているのかが、とてもよくわかります。

テレサは、本当に慈悲深い人であると同時に、自分自身がチャイニーズであることへの誇りも持ち合わせていました。

彼女の最高傑作と言えるアルバム『淡淡幽情』は、中国宋時代の古典詞にメロディーをつけ、よみがえらせたものであり、香港でも大変高い評価を受けました。

この『淡淡幽情』完成後も、中国の古典(詩、詞)を学び続けていたテレサは、中国の文化遺産を知れば知るほど、自分自身のルーツに対して、より誇らしく感じていたと思います。

だからこそ、日本の聴衆の前で『わたしはチャイニーズです』と言えたのではないでしょうか。

この時のテレサの姿を見ていると、私達日本人が忘れている大切なことを教えてくれているように感じました。

日本では集会の自由、言論の自由等が保証されており、そのことが当たり前のように感じてしまいますが、冒頭で記した六四天安門事件のように、集まっていたデモ隊を武力で鎮圧し、多くの死傷者を出すという悲惨な事件が隣国の中国で実際に起っています。

また、テレサが生まれた台湾は、中国共産党との緊張した関係の中に置かれており、また国民党政府が反体制派に対して政治的弾圧を行った過去があり、1987年に解除されるまで長く戒厳令が敷かれていたのです。

テレサが感じていたのは、いつ脅かされるかわからない自由。まさに曲名の通り「悲しい自由」だと思います。

そうであればこそ、大変な切実感を込めて、「わたしは自由でいたい。そして、すべてのひとたちも自由であるべきだ」と語ったのでしょう。

さて、テレサが持っていたチャイニーズとしての誇りについてはどうでしょうか。

中国には長い歴史があり、様々な素晴らしい文化も生まれてますが、その歴史の中で様々な国が台頭しては滅びるということを繰り返してきました。決して一つの国が長く続いたわけではありません。テレサが持っていたのは、チャイニーズ(華人)としての民族的な誇りだったのでしょう。

それに比して、日本は万世一系の天皇と共に長く一つの国として存続してきました。それ故に、1989年のように元号が変わることは、今でも日本では大きな時代の節目となっています。日本には、長年続いてきた世界に誇れる伝統や文化が確かにあるのです。

テレサが語ったコメントは、天安門事件に関するものであると同時に、「日本のみなさん、このような魅力のある日本に生まれた皆さんは、日本人であることにもっと誇りを持ってよいのではないでしょうか。」という日本人へのメッセージとしても、私には感じられたのです。

さて、この『テレサ・テン十五周年スペシャル』の収録が終わり、11月に入ると、ベルリンの壁崩壊という事件が起こり、世界は大きく動いてゆきます。

そして、香港を拠点に活動していたテレサは、香港が中国に返還されると「自由」が奪われてゆくことを予見し、香港を離れ、パリへと向かうことになりました。当時、フランス革命から200年周年記念の年でもあり、フランスは中国からの政治亡命を希望する人たちを多く受け入れていました。香港の民主活動家も多くパリへと移り住んだようです。

1989年は、世界的に見ても、日本においても、そしてテレサ自身の人生にとってもたいへん大きな転換点となった年となりました。

パリに移り住んで以降は、テレサの活動頻度は少なくなっていきましたが、深い悲しみを伴う「慈悲心」と、「チャイニーズとしての誇り」だけは、しっかりと心の中に持ち続けていたと思います。

 

※参考資料
・有田芳生著『私の家は山の向こう』文芸春秋刊
・平野久美子著『テレサ・テンが見た夢』筑摩書房刊

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日記」カテゴリーもっと見る