・供養の日-9月4日-(一般社団法人供養の日普及推進協会)
以上の通りであるが、ここ5年くらいの団体のようである。それで、上記の団体とは全く関係がない当方ではあるが、勝手に仏教に於ける「供養」について見ていきたいと思う。
問うて曰わく、若し爾ならば、何ぞ即ち華香等を説かず、而も其の因を説かざるや。
答えて曰わく、供養具に二種有り、一つには財供養、二には法供養なり。若し但だ華香等の供養を説くのみならば、則ち法供養を摂せず。今、善根供養を説くは、当に知るべし、則ち財・法、倶に摂す。
供養とは、若しくは見、若しくは聞き、諸仏の功徳、心に敬し尊重す。迎逆、侍送、旋繞、礼拝、曲躬して手を合して而も住す、坐を避け処を安んじ、飲食、華香、珍宝等を勧請す。種種に持戒・禅定・智慧の諸功徳を称賛して、説く所の法有れば、信受教誨し、是の如く善く身口意の業、是れを供養と為す。
『大智度論』巻30
上記一節では、供養について2つを挙げている。それが、「財供養・法供養」なのだが、その内、財供養(要するに供華や供香など)だけだと、法供養を合わせて説くことにならないという。そのため、「善根供養」を説くという。「善根供養」については、上記引用文の後半で説明している。
それはつまり、諸仏の功徳を尊重しつつ、礼儀作法など、正しい威儀で毎日を暮らし、或いは仏像(仏陀が存命であれば、仏陀本人へ)などに対して礼拝をすることを指すと思われる。そして、様々な「財供養」をしたとしても、それだけに留まらず、持戒や禅定、智慧などの功徳を称賛し、説法を良く信じれば、身口意の三業が善になるという。
いわば、この善となった身口意の三業をもって仏陀への礼拝をすることが、供養となるけれども、同時にその礼拝などを通して、身口意を善としていくという双方向的な意味合いがあると思われる。
ところで、同じ『大智度論』には、供養と衆生との関係を示した一節があるので、それを見ておきたい。
菩薩業に二種有り、一に供養諸仏と為し、二に度脱衆生と為す。
諸仏を供養するを以て、無量の福徳を得、是の福徳を持して、衆生を利益す。いわゆる、衆生の願を満たすなり.
同上
菩薩業とは、菩薩の行いということだが、その中に、諸仏を供養することと、衆生を度脱することとが挙げられている。この場合、まず諸仏を供養し、それによって得た無量の福徳をもって、衆生に利益することを指すという。いわば、善行と回向という関係性になると思われる。供養とは、それほどに、自分にとっての善行になるのである。何故なのだろうか?一部では、布施(恵施)の行いが、清浄心になるとされるからだという。
よって、供養とは大事なのである。ただし、昨今話題になっている、無茶な献金などは、ここでいう供養とは全く異なる次元にある話であるから注意が必要である。
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