同冬安居、簡都寺、可首座、覚日浄頭、夢に曰く……
『洞谷記』
瑩山禅師に係る文章に「冬安居」とあって、何らかの行持が認識されていたことが分かる(ただし、『瑩山清規』には、「冬安居」という字句は見えない)。そして、以下の一節も見ることが出来る。
元和尚に従い、越州に下る。しばらく、吉峰古精舎に止宿す。冬安居、師、典座となって、歓喜奉仕す。
寛元元年(1243)癸卯冬、殊に雪深し。八町の曲坂、料桶を担って、二時の粥飯に供す。
『永平寺三祖行業記』「三祖介禅師」章
こちらは、瑩山禅師も編集に関わっていたと考えられる『三祖行業記』の記述であるが、徹通義介禅師が道元禅師の会下に於いて、「典座」を勤めた内容となっている。ただし、この時はまだ、吉峰寺におられたわけで、興聖寺や永平寺で行っていたような、正式な「安居」をされていたとは思われない(そのため、道元禅師の語録である『永平広録』にも、この期間中の上堂は残されていない)。
そうなると、「冬安居」という言葉そのものの意味が問われる事態であると思う。そこで、以下の一節も参照しておきたい。
侍者の役にて御座とて、冬安居帽子をも木像にかぶせ不申也。
『建撕記』
これは、懐奘禅師の訓誡の1つだったとされる一節だが、ここにも「冬安居」と出てくる。しかし、この「冬安居」とは、いわゆる「夏安居」のような、正式な念誦・小参などを経ていないと思われる。よって、道元禅師御自身、或いはその門下では、正式な「冬安居」という作法は行われていなかったけれども、雪深い冬に寺院に籠もる様子を「冬安居」と称していたのではないか?という指摘をするものである。
そうであれば、先に見た、瑩山禅師の『洞谷記』や、『三祖行業記』の記述についても、整合性を持って理解出来ると思われる。以上、今年の「冬安居」の開始後に、簡単な雑感を書いてみた。
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