解夏の上堂、四月十五日に結夏す、老鼠、飯瓮に入る。七月十五日に解夏す、烏亀、竹竿に上る。
『如浄和尚語録』
こちらは、中国曹洞宗の天童如浄禅師(1162~1227)の語録から引用した。要するに、夏安居の期間が4月15日~7月15日であることを非常に分かりやすく示した教えである。他にも、中国の宋朝禅の禅僧達には、幾人か同様の言葉を示している方がおられる。或いは、軌範上はどうだろうか。
『禅苑清規』巻2には、「結夏」「解夏」の項目があり、前者は前日の4月14日から引き続きで結制していくのに対し、後者も7月14日から念誦などがあり、翌15日に到って解夏する。
ところで、上記の状況もあってか、宋朝禅の影響が強い日本禅各宗派も、旧暦の時代には4月15日結夏、7月15日解夏が一般的であった(新暦になってからは、1ヶ月ずらす場合が多い)。だが、律蔵を見てみても、この日付が共有されていることは、少ないように思う。調べ方が悪い可能性は全く否定しないのだが、どうも良く分からない。
それから、もう一つ中国禅的な改編として、結夏・解夏に伴う念誦(土地堂念誦)を挙げることが出来よう。例えば、以下の通りである。
行脚人、欲就結夏する所の処に就かんと欲すれば、須らく半日前に於いて掛搭すべし。貴ぶ所は、茶湯人事、倉卒に至らざれ。四月十四日、斎後、念誦牌を掛く。晩に至りて知事、予め香花を法事に備え、土地前に集衆して念誦す。
『禅苑清規』巻2「結夏」項
この行法は、やはり宋朝禅の安居の作法を導入された、道元禅師の『正法眼蔵』「安居」巻でも、同様である。ただ、安居・結夏と念誦の組み合わせで調べても、律蔵には無いようなので、安居儀礼の禅宗化というべきだろうか。
それから、安居の時には、「戒臘牌」を掛ける慣習も、禅宗寺院ならではなのであろう。漢語の仏典として「戒臘牌」に言及したもので、古いのは12世紀初めの『禅苑清規』だと思う(先ほどから言及している巻2「結夏」項に見える)。ただし、その用い方の詳細は見えない。それが分かるのは、『禅林備用清規』巻2「往 念誦」項であり、「結夏、戒次に依りて図を写す」とあるが、これが「戒臘牌」である。
だが、『禅林備用清規』は元の至大4年(1311)成立であり、それを思うと、日本の鎌倉時代中期までに成立した、道元禅師の『正法眼蔵』「安居」巻の方が早い(具体的には寛元3年[1245]6月13日)。道元禅師は、「戒臘牌」を整備するための手順として、まず結夏を前に4月3日から下書き(一部では「草単」と呼称)を用意し、そこから修正などを加えて、4月15日粥罷までに「戒臘牌」を整えて掲示するとしておられる。
この「草単」から「戒臘牌」へという手順は、後に『勅修百丈清規』で明文化されている。具体的には同書巻7の「夏前出草単」や「出図帳」、または「戒臘牌」などの項目を見てみると理解可能である。よって、道元禅師が伝えられた作法は、中国でも同様に整備され、明文化された様子が理解出来、江戸時代の臨済宗妙心寺派の無著道忠禅師は『禅林象器箋』巻23・24などで、この辺を総括的に論じている。
さて、以上のように、現代の安居の制から遡っていくと、日本と中国との共通性は理解出来るが、そこから更に遡ることが困難であることが分かる。そういえば、明治時代に入り、結制について検討した大内青巒居士は、『結制の由来』(鴻盟社・明治39年)という冊子で、安居や結制という用語については律蔵なども参照されているが、歴史的な展開は、率直に分からないとしている。
しかも、当方と同じように、中国・日本の様子を検討されているが、そこからインドへ繋げてはいない。よって、安居の制自体については、何らかの断絶があったと見るのが自然である。青巒居士も行われているように、出来れば、中国の禅宗以外でどのように行われていたのかを見ておきたいが、それはまた何かの機会に行いたい。
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