今日はそこから、「開壇弘戒」という項目の一部を見ていきたい。
開壇弘戒
凡そ仏子、受戒を欲せん時は、作梵作白等の書式、具に『壇戒羯磨』に載せる。故にここに録せず。
参学人、叢林に入り、依止を求めん者は、先ず須く禁戒を受持し、威儀を厳蕭すべし。
近世の愚徒、罪福を明めず、戒相を知らず、仏経・祖録これを置いて学せず。競いて俗士に従い、学を外書に求む。白衣の上座ならば恕すべし、無智の僧侶行列して殊に慚色無く、仏祖を毀辱す。此に於いてか過無き有智これを聞きて切に宜しく深誡すべし。
前掲同著、290頁 訓読は拙僧
ちょっと、句読点の付け方や文章の切り方は、『続曹全』の見解には従っていない箇所もある。
さておき、ここでいわれている内容とは、まず仏子として戒を受けたいと思う者に対し、その時に必要な作法(梵唄や表白文)などは、『壇戒羯磨』に載せているという。この『壇戒羯磨』という文献について、当清規中には収録されておらず、また、典籍名としても、管見の限りだが、見聞したことが無い。しかしながら、中国明代に「弘戒沙門」と自ら名乗った漢月法蔵が撰集した『伝授三壇弘戒法儀』の末尾には本書の説明として、「此の本、乃ち三壇戒の正文なり。其の余の羯磨・教授・尊証・開導、諸の般仏事、倶に弘戒法儀に依る」(『卍新続蔵』巻60・625c)とあって、まさに『壇戒羯磨』であることを示す。よって、おそらくは同書のことを指しているのだろうと思われる。
それから、参学人以下は、「受戒を欲する」者達への警戒文である。つまり、叢林に入って、依止(師に就いて学ぶこと)を求める者は、まず戒律を受持し、威儀(僧侶としての正しき姿)を保ち厳しく物寂しく(物にとらわれない)すべきだというのである。
しかし、近世(当時に於ける最近の、の意)の愚かな者達は、罪や福がどのような行為によって引き起こされるかを学ばず、戒相も知らず、仏経や祖録も学ばず、ただ俗人と仲良くすることのみを願い、仏教書以外のものばかり学んでいるという。そのような様子について、白衣(在家)の者ならば許すけれども、無智なる僧侶が列をなすように、自分のやっていることに対して恥じることもせず、仏祖を辱めているという。よって、咎の無き智慧有る者は、これを聞いて、よく自らの内に深く誡めよ、としているのである。
こういう様子を見ると、本書が書かれた当時の僧侶(禅宗に限ったことではあるまい。この時代、宗派間を越えて学ぶことは珍しくなかった)は、戒律などを知らず、正しい威儀も知らず、好き勝手に振る舞っていた様子を垣間見ることが出来るのである。
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