八月旦の上堂。
一二三四五六、何ぞ七と道わざるや。才かに七有れば便ち有り。乃ち喝一喝して云く、幾くか道著せん。
下座す。
『竺仙和尚語録』巻下
こちらは、臨済宗の竺仙梵僊禅師(1292~1348)という人の上堂語である。おそらく、頑張って調べれば、説示された年代も割り出せるとは思うのだが、毎日暑いので、それはしないでおこう。
いみだが、竺仙禅師は最初、一・二・三・四・五・六と述べたが、「七」までは行かなかった。一方で、「七があれば・・・もある」という。これは、色々な意味を含むが、実は仏教に於いて「七」とは、仏陀を指すことが多い。
それは、「六道世界」が、衆生の生きる世界であって、それを超越したところに「七」があるためである。そうなると、「七」を仏陀とすれば、それは自性でもあるから、それがあれば、他にもある。
ついでに、この時が「8月」だったとすると、「八」はどこにどのようにあるのだろうか?
竺仙禅師は「八」を論じてはいない。だが、「七」まであれば、「八」は自ずから論じられるものだが、「七」自体がとらわれの対象外であるから、「八」も同様である。つまり、「七」以降は、ただとらわれないという点だけでまとめられる。
とらわれないから、言語的表現をすることも出来ない。する意味が無い。竺仙禅師の「喝」や「幾くか道著せん」というのは、そういった無分別に於いてのみ観取された仏法の働きを示すものだといって良い。
ということで、今日から8月、今月はこの無分別の境涯にひたれるように生きていきたい・・・いやまぁ、当方は盆月だが。
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