つらつら日暮らし

『仏垂般涅槃略説教誡経』に学ぶ(3)

さて、『仏垂般涅槃略説教誡経(遺教経)』は、全部で「七分」から成立しているとされる(岩波文庫本「解題」参照)。

一、序分
二、世間の功徳を修習する分(一、邪業を誡む。二、根心を誡制す。三、多衆を誡む。四、睡眠を誡む。五、瞋恚を誡む。六、貢高を誡む。七、諂曲を誡む)
三、出世間大人の功徳を成就する分(一、少欲功徳。二、知足功徳。三、遠離功徳。四、精進功徳。五、不忘念功徳。六、禅定功徳。七、智慧功徳。八、究竟功徳)※八大人覚
四、畢竟甚深の功徳を顕示する分
五、入証決定を顕示する分
六、未入上上証を分別するため疑を断ずる分
七、種種の自性を離るる清浄無我の分


我々はどうしても、『正法眼蔵』「八大人覚」巻の影響で、ここでいう「三」が気になるが、他の部分も重要である。例えば、次のような一節はどうだろうか。

汝等比丘、憂悩を懐くこと勿れ。若し我れ世に住すること一劫なりとも、会せば亦た当に滅すべし、会して離れざるは,終に得べからず。自利利人(他の場合も)の法、皆な具足す、若し我れ久しく住するとも更に益する所無けん。応に度すべき者は、若しは天上・人間、皆な悉く已に度し、其の未だ度せざる者は、皆な亦た已に得度の因縁を作す。
    「未入上上証を分別するため疑を断ずる分」


この一節は、仏陀の優しさと受け止めることが出来る。無論、既に入滅間近であることが否定されたわけではないし、別れも必ず来る。しかし、それこそが世の習いであること、法則であることを明示され、その事実を早く受け入れるように示された。仏陀の苦悩からの解脱とは、自らその法則に良く親しむこと、そのための方法である「四諦」を良く会得することに他ならず、それは同経でも説かれている。

そして、仏陀はこれ以上、この世にいても意味は無いとする。それは、既に導くべき者は導き終わり、まだ導いていなくても、そのための因縁は既に与えておかれたためである。拙僧つらつら鑑みるに、ここを信じるか否かが、或る意味、仏教徒であるかどうかを分けるといえよう。仏教徒であれば、この「得度の因縁」が既に成就したことを信じ、後はその信念の中で、実際に得度できるように精進するのみだといえる。

つまり、仏陀は最期の最期に、自らが導いてきた者に対し、その人生に相応しい別れを行い、更に、自らに逢えなかった者達までをも導こうとされた。これこそが、慈悲の発露といえる。慈悲とは大乗仏教にのみ限定されることではない。仏陀が成道され、そして初転法輪して以降、この『遺教経』に説かれていることまでも、それらは全て慈悲の心による慈悲の行いである。

そのことを知るにも、この時期には特に、『遺教経』を学び、仏陀の入滅について良く考えを巡らすことが肝心だといえよう。

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