先の記事の末尾で、もともと「五観の偈」は黙然・観法していたのであり、口称していたものではないという指摘をした。それに関してSNS上でご質問を頂いたので、関連した記事をアップしておきたい。
そもそも、唱えていなかった、というのは、以下の文脈から理解出来る。
合掌して食に揖す。次に五観を作す〈一計功多少量彼来処。二忖己徳行全欠応供。三防心離過貪等為宗。四正事良薬為療形枯。五為成道故応受此食也〉。
然る後に出生す(未だ五観を作さざれば己が食分に非ず。出生することを得ざれ)。偈に云く〈汝等鬼神衆。我今施汝供。此食遍十方。一切鬼神共〉。
『禅苑清規』巻1(1103年成立)「赴粥飯」
良くご覧頂くと、「五観」については「作す」となっており、出生については「偈に云く」ということで、表現の違いから、前者を唱えず、後者を唱えていた可能性を指摘したい。そして、この表記の違いは、『入衆須知』(成立年時不明。宋代、道元禅師遷化後か)にもそのまま踏襲されている。よって、この両方が道元禅師にも影響を与えていることと、『禅苑清規』をほぼ踏襲している『赴粥飯法』の記述に鑑み、その時代には「五観」を唱えていなかったと考えるべきだと思う。
ところがである。この表記が、少し後には、こう変化した。
揖し罷って五観を作して、想念して云く、「一計功多少量彼来処。二忖己徳行全欠応供。三防心離過貪等為宗。四正事良薬為療形枯。五為成道業故応受此食」。出生す、偈を念じて云く、「汝等鬼神衆。我今施汝供。此食遍十方。一切鬼神共」。
『叢林校定清規総要』巻下(1274年成立)
ここでは、五観も、出生偈もともに、「云く」となっている。他の偈文も同様の表記であるため、この段階で、「五観」は口で唱えるようになっていたものと思われる(無論、議論の余地は残す。偈文の内容を「云く」で説明しただけの可能性もあるためだ)。しかし、先の『禅苑清規』などの表記と違うことは明らかで、その後の『勅修百丈清規』(1338年成立)にも、この「云く」付きの表記は踏襲された。よって、それらの影響が明らかに確認されるようになった時代、江戸時代などには、当たり前に唱えるようになっていたのだろう。
では、どのように唱えていたのだろうか?一つ、気になる文章があったので、挙げておきたい。
次に観想出生。飯・羹・飣、三種もり了って、遍槌一下して、定印入観す〈観文、『永規』にあり。後に出す〉。出観の後に、出生は右手の大指と頭指にて、飯七粒をとり、刷柄の上に安ず。
面山瑞方禅師『洞上僧堂清規行法鈔』巻1「僧堂粥飯法」
食事が配られ終わった後で、槌が一下され、大衆は「定印」をもって五観に入る。つまり、元から僧堂で下肢は坐禅の状態だが、手も法界定印を組んで五観を行ったということだ。しかし、ここで口で唱えていたかどうかは、良く分からない。そして、その時の注意点もある。
次に浄人が仏制五観を唱て生飯を出し〈中略〉また、この五観を、浄人が高声に大衆にすすむるも非礼なり。古規の通に、時至て各各念ずべし。
同『洞上僧堂清規考訂別録』巻2「粥飯作法考訂」
同じく面山禅師は、浄人が大きな声で、五観を唱え、大衆に(唱和するように?)勧めるのも非礼であるとしている。「各各念ずべし」とあることから、先の『僧堂清規』の通りに行ったということだろう。よって、面山禅師は、五観の偈が浄人主導で唱えられていた事実を、古規によって否定しようとしたといえる。しかし、大衆は唱えていたのだろうか?結果、以下の一節を参照しておきたい。
五観と云は、その著味せざる道理を五段にわけて、くわしく念想観察せしむるなり。『毘尼母論』の中に、「鈍根の比丘は、総じて一念をなせ、利根の比丘は、一口一口に念をなせ」と説けるなれば、今も文句ばかりを唱ふるにはあらざるなり。
同『受食五観訓蒙』
引用されているのは『毘尼母論』とはいうが、おそらくは道宣『四分律刪繁補闕行事鈔』からの孫引きか?とはいえ、ここから分かることは、面山禅師は「五観」について、ただ口で唱えるだけでは無いとしている。内心にその観想が伴うことの重要さを指摘したいのだろう。
よって、結論としては、この流れの通りなのだが、元は口称されていなかったであろう「五観」が中国宋代には口称されるに至り、結果として日本の江戸時代に至って中身が伴わなくなってきたので、それを充実させようという意図が働いたといえようか。もっと他の文献を見ていけば、更に色々と出て来ると思うが、今のところは以上である。
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