諸廻向宝鑑に云く、問て曰く、彼岸と言ふ者、如何なる義なり乎。
答て曰く、二季彼岸と言ふこと、此の節に臨で仏道修行を勤め、娑婆此岸を離れ、煩悩愛欲苦海中流を過渡して、涅槃常楽の彼岸に到着すと云ふ義也。故に、次第禅門云く、生死を此岸と為し、涅槃を彼岸と為す。煩悩を中流と為し、菩薩無相智慧を以て、禅定の舟𦨞に乗り、生死此岸従り涅槃彼岸に到る。
刊定記に云く、生死を此岸と為し、有情居するが故、煩悩を中流と為し、最も渡り難が故に、涅槃を彼岸と為し、諸仏住するが故に〈已上〉。
夫れ二季彼岸と云は、世間有為の時節に約して論ず。出世無漏到彼岸の義とは、遥に雲泥を隔たり能譬所譬等の弁へ無く雑乱の失あり、能思察すべし。
『彼岸弁疑』巻上・2丁表~裏
さて、まず『諸廻向宝鑑』で彼岸会は、巻4「十四 彼岸の本説」に見え、特に「彼岸名義」項を元に書かれている。なお、「夫れ二季彼岸」以降は、『彼岸弁疑』作者の見解である。
それで、元の『諸廻向宝鑑』ではとにかく、「彼岸」という用語の意義を解説しているのだが、典拠となっている『次第禅門』とは、天台智顗『釈禅波羅蜜次第法門』であり巻第一之上「釈禅波羅蜜名第二」に「波羅蜜」の用語解釈として上記の一節がある。『刊定記』だが、長水子璿『金剛経纂要刊定記』巻2に該当する。
よって、とにかく「此岸」「彼岸」「中流」の3句については上記の通り理解されていたようだが、『彼岸弁疑』では何を批判しているのかといえば、二季彼岸を『次第禅門』などで解説することへの批判である。何故ならば、「二季彼岸」は世間の行事であるが、『次第禅門』などは、出世間の仏道者の修行などを示しているので、雑乱の失があるとしたのである。
この辺は、拙僧どもも注意しなくてはならないな。
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