・四祖能州洞谷山永光寺〈開山〉紹瑾禅師〈大乗二世なり。号に瑩山と曰う〉。幼歳より師に従い、披剃具戒、然る後に加州大乗徹通和尚に参ず。 天性『仏祖正伝記』1399年成立
・師諱は紹瑾。瑩山と号す。越前州多禰郡。姓は藤氏。 『諸嶽開山二祖禅師行録』
・師諱は紹瑾。瑩山と号す。姓は藤氏。越前州多禰郡の人なり。 『日域洞上諸祖伝』
・〈二代瑩山紹瑾和尚〉越前多禰の人。藤氏。 『大乗聯芳志』
・禅師、諱は紹瑾。瑩山と号す。素より越前多禰邑に生まる。未だ嘗て氏族を説かざるなり。 『洞谷五祖行実』
・能州洞谷山永光寺瑩山紹瑾禅師。越前多禰郡の人。世の姓は藤氏。 『日本洞上聯灯録』
・〈文永五戊辰誕生〉師諱は紹瑾。瑩山と号す。姓は藤氏。越前州多禰郡の人なり。 明治18年刊行『伝光録』所収「瑩山瑾禅師伝略考」
・師諱は紹瑾。瑩山と号す。文永五年十月五日(太陽暦十一月廿一日)、越前国多禰邑に生る。 石川素童禅師『伝光録白字弁』
以上の通り、だいたい参照可能な史伝を集めてみた。ここから分かるところとしては、以下の3点である。
(1)出身地については「越前国多禰邑」と「越前国多禰郡」と2通りの記述がある。
(2)出身の氏族については江戸時代に刊行された文献では「藤氏(藤原氏)」が基本だが、『洞谷五祖行実』は敢えて氏族を説かない。
(3)生まれた日付については明治期以降の決定か。
なお、『仏祖正伝記』については、成立年代から推定できる、最古級の瑩山禅師伝になるはずだが、生まれた状況についてはほとんど書かれずに、出家後の状況から始まるという内容となっている。また、上記文献の多くが、瑩山禅師58歳遷化説を採るのだが、『仏祖正伝記』は、瑩山禅師の遺偈を収録しないこともあって、遷化した時の世寿を記録しない。
そして、その世寿の関係で混沌としてしまうのが、まさしく今日という太祖降誕会の日付である。【降誕会―つらつら日暮らしWiki】でも紹介した通り、瑩山禅師の降誕会が今日という日付になったのは、明治33年以降である。
また、太陰暦・太陽暦換算の点でも問題が残り、瑩山禅師の世寿は現在では62歳であったと考えられている。そうなると、「文永5年10月5日」というのは、58歳説に因んだものであり、62歳説だと「文永元年10月5日」生まれとなり、これを太陽暦に換算すると「1264年11月5日」となる。ということは、太祖降誕会がずれることになるといえる。
しかし、ここは逆転の発想で、もし「10月5日」という日付の典拠が曖昧であるとすれば、むしろ、「1264年11月21日」を和暦に換算して、その表記を「文永元年10月24日」としても良いのかもしれない。どちらにせよ、現在の太祖降誕会については、世寿の変更の影響を踏まえて、整理すべきであると思う。
なお、『洞谷五祖行実』で、敢えて姓を「藤氏」と示さない理由については、一見に値する。
一日、垂示に云く、予、夙生は倶婆羅樹神なり。毘婆尸仏の時発心し、忽ちに阿羅漢果を証す。後に第八尊者蘇賓陀に随い、倶に北倶盧州雪山に住す。五百生前興法利生の現身なり。この夙因に乗るが故に、今生を北陸白山下に受くる、云々。
『行実』ではこのように示し、世俗的な「姓」よりも、仏祖や神に因んだ夙因を説くことで、より宗教的な意味合いを高めたといえる。だからこそ、「藤氏」と書かないのである。なお、この『行実』に見える一節は、『洞谷記』で瑩山禅師ご自身が述懐した内容を踏まえてのものであり、『洞谷記』の影響が見られるのである。
拙僧つらつら鑑みるに、瑩山禅師のお生まれになった状況については、色々と不明な点が多いけれども、これまでの先達が、明らかにしようとしてきた伝統を踏まえて、今後も顕彰されるべきだと思われる。南無太祖常済大師、合掌。
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