菩薩の禁戒に十事有り。何をか謂いて十と為すや。
道心を捨てず、
声聞・縁覚の意を捐つ、
一切の衆生を観察して愍を行ず、
群萌を開化して仏法をして住せしむ、
菩薩の奉修して応に学すべき所は、
一切の法悉く不可得と解すべし、
造る所の徳本道に至るを勧助す、
未だ曾て諸仏身に猗著せず、
能忍の諸法亦た倚る所無し、
諸根を済護して以て禁戒と為す、
是れを十事と為す。
時に頌して曰く、
常に道心に和し、声聞・縁覚を捨て、
衆生を愍傷して、勧めて仏法を立てしめ、
諸もろの菩薩行を学び、法の無所有なるを解して、
一切の徳を行ずる所、仏道を勧助す。
『度世品経』巻1
ということで、「菩薩の禁戒の十事」である。具体的には、道心(菩提心)を捨てずに、声聞・縁覚の思いを捨てて、一切の衆生を観察して慈悲の心を行い、多くの者達を導いて仏法を住させるようにする、菩薩は学ぶべきである、一切の法が「不可得=空」であると理解し、徳本を植えて仏道に至るように助け、諸仏身には拘らず、また能忍=釈尊が説いた法にも執着せず、自らの感覚をよく護って禁戒とすること、これを十事とする。
それを偈頌として再度詠まれているが、意味するところは略されているだけで、基本は同じである。
さて、ここで気になることといえば、菩薩の禁戒の中に、菩提心を捨てないということと、声聞・縁覚の意を捨てるというのが、相互補完的に示されることである。ここは、明らかに衆生済度を、菩薩の「禁戒」に組み込む意図があったことを意味していよう。それから、個人的には仏陀の法を一切不可得=空と見ることが、禁戒の扱いを受けるというのも、興味深い。ただし、そうでもしないと、すぐに実体化し、その上で思想を組み立てようとする場合があるという危惧なのかもしれない。
実際、不可得=空という発想は、現実には困難である。眼前に見えているもの、或いは、その事象自体について、これが不可得=空だと直観することは、それ自体訓練を要するといえよう。そのため、禁戒に入れることで、何度でも繰り返し、身に付けるしか無いのかもしれない。
そうでないと、中国禅宗で発生した徳山宣鑑と、或る婆子との不可得心問答が起きた理由も分からなくなってしまう気がした。
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