鋏ってのはただつくりゃいいってもんじゃない。鉄板を切るのとか、紙を切るの、布を切るの、木を切るの、それもうすいの厚いのを切るの、鋏といっても全部ちがいますね。
木鋏は太い幹も切るし、薄い葉も切る。ふつうにつくると木がはさまっちゃって止まっちゃうんですよ。中に入っていかない、だから刃の角度がちがうし、先の方はうすいものも切れなくちゃいけない。見かけは同じようでも多様な用途があるんだね。ドイツの花切りなんてのも、葉を切るにはいいんだけど固い茎を切ろうと思うと止まって刃先がつぶれちゃうの。
森まゆみ氏『手に職。』ちくまプリマー新書、125~126頁
森氏は、いわゆる「谷根千」のブームを起こした方と記憶しているが、同氏の著作の中に、以上のような一文を見付けた。そして、これこそが、現状の日本仏教に於いて、宗派が分かれている理由になるのだろう、と思った次第である。
この「鋏(ハサミ)」の話、ただ、「切る」っていう事を目的にした道具になるわけだが、相手が様々だと、ハサミも様々に発達するわけである。上記に紹介されているのは、木鋏と、ドイツの花切りだが、普通に使っている紙などを切るためのハサミに、我々の髪を切るハサミ(僧侶は切らないで剃っているが)、或いは鉄を切るための分厚いハサミに、通販番組で紹介される「高枝切りバサミ」なんていうのもある。
問題は、これらは「同じハサミ」であるのに、特定の用途に特化してしまうと、別の用途のために使えない、ということである。無論、「紙」くらいは、どれでも切れるのかもしれないが(ただ、以前、木鋏で紙を切ろうとしたら、上手くは切れなかった)、でも、紙を専門に切るハサミの方が上手く切れるし、切り終わった時の見た目も良い。
この様子を考えながら、我々日本仏教の宗派が分かれているのは、こういうことなのだろうと直感したわけである。要するに、ご祈祷などでもって救う宗派もあれば、坐禅でもって仏性に気付かせる宗派もあるし、阿弥陀仏の本願を信じ念仏する宗派もある。もちろん『妙法蓮華経』を信じている宗派もある。それは、それだけ様々な衆生に対応するために分かれ、独自の発達を見せたと理解すべきであろう。その上で、独自性のために、むしろ固有の領域を作ってしまった、というべきなのかもしれない。
だから、自らの宗教性が喚起されていない人、或いは、幸いなことに、救済を不要としてきた人からは、「何やら分かり難い」という話になるのかもしれない。ただ、逆に考えれば、様々な状況で、自分に合った教えを「選択」出来る可能性が高いわけで、そういうことからすると、要は「使ってみれば良いのだろう」、と思うわけである。
例えば、様々なハサミがあることについて、「種類が多くて分かり難い」という人はいるかもしれないが、使ってみれば、その種類があることを許容出来るはずである。仏教も同じことである。先祖供養なら、自分の家が従来お世話になってきた菩提寺で良いだろうが、自分自身の安心のためを考えた時、念仏を学んでみようという人がいてもおかしくない。坐禅を修行してみようという人がいてもおかしくない。或いは、密教の世界観を学ぶのも良いし、仏教学を系統立てて学ぶのも良いだろう。
問題は、各々特化され、長年の経験が蓄積されているが故に、容易にその宗派間で連絡が付かないことである。しかし、それはハサミと同じである。高枝切りバサミで、分厚い鉄が切れないことを怒る人は、何かを間違えている。仏教の宗派が多いことや、複雑なことを怒るのは、そういうことと同じではなかろうか。菩提寺に何でもかんでも期待するのが間違っていると思う。菩提寺が確立された江戸時代の当時から、菩提寺は先祖供養のための場所、それ以外の宗教行為は、他の寺や、他の僧侶を頼って行っていたようである。ハサミと同じ、寺院や僧侶も付き合い方次第であろう。
ところで、今日、この記事をアップしたのは、今日8月3日が語呂合わせで「はさみの日」だったからである。
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