鄂州巌頭清厳大師〈徳山に嗣ぐ、諱は全豁〉因みに僧問う、「三界の競起する時、如何」。
師曰く、「坐却せよ」。
僧云く、「未審し、師意、如何」。
師曰、「廬山を移取し来れ、即ち汝に向かいて道ん」。
『真字正法眼蔵』上75則
この問答だが、徳山宣鑑禅師の弟子である巌頭全豁禅師(828~887)に、或る僧が聞いている。何を聞いたかといえば、「三界」というのは、この我々の世界を含めた全宇宙くらいの意味で考えて貰えば良いと思うが、それが「競起する」としている。昔、この意味を或る先生に聞いたら、向こうから盛んにドンドンくるようなイメージだと仰っていたように覚えている。
よって、巌頭は「坐ってろ」といったのである。取り合う必要も無いということであろう。だが、僧は「良く分かりません。師の意図は何ですか?」とか聞いたわけである。すると、巌頭は「廬山を移動させてこい。そしたら、お前に教えてやる」と答えたわけである。
なるほど、これは中々だな、と思うのだが、これで記事を追えてしまうと、「無理会話」になってしまいそうなので、把握するように努めたいが、この後半部分のみ、道元禅師が頌古を詠んでおられる。
なお、『真字』だと、「未審し、師意、如何」だが、『永平広録』巻9では、「如何なるか是、祖師意」になっており、「祖師意」だと達磨尊者のことになりそうだが、そう理解して良いのだろうか?
廬山移取して廬山に来る、向道誰か知らん半口開けたり、
未審し巌頭、還た坐却すや、三界に同ぜず競って崔嵬たり。
『永平広録』巻9-頌古30則
要するに、去来皆廬山ってことは、廬山のみで尽十方界になり、畢竟三界の意か。よって、誰かに向かって道理を説こうにも、半口開けただけで全開である。よって、そんな尽界皆廬山、とどのつまり真実人体だっていうのに、不思議なことだ巌頭よ、坐ってしまったのか?それは、三界に一如せず、ただ石ころ多い山の表面の如く、心穏やかならざる様子を示したに過ぎないのだ。
ここから考えれば、廬山を移動させてこい、そうしたらお前にいってやる、というのは、既に廬山=仏経の事実である以上、とっくに説かれ終わってしまったということか。
なお、何でこれで「ロック」の記事なのか?と思う人がいると思うが、「ロック」を「巌(いわ)」と解釈して、巌頭禅師を採り上げてみた。
#仏教
最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
2016年
人気記事