つらつら日暮らし

菩提心と菩薩戒の関係について

こういった教え、これまで余り気にしていなかった感じがしたので、採り上げてみる。

夫れ、菩提心を発して菩薩戒を受けざるは、則ち三世諸仏入仏道の基本に背く。
    面山瑞方禅師『永平家訓綱要』「序」


確かに、菩提心を発したのであれば、菩薩戒を受けないのは、入仏道の基本に背くなぁと思った。それで、こんな当たり前のことに、何故思いが至らなかったのか?について考えてみた。いや、個人的にこういう流れが無いという話では無い。拙僧どもはありがたいことに、出家する際には受業師から、伝法する際に本師から、それぞれ菩薩戒を伝授する。

菩提心についても、古来の祖師と比べてどうなのか?という指摘があるかもしれないが、まぁ、僧侶としてやっていこうという覚悟を決めた段階で、或る種の菩提心の発露だと思っている。よって、問題はここにあるのではない。実は、現在の曹洞宗の教義の受け止め方次第だと思っている。

それは、現在の曹洞宗の教義は、『修証義』の「四大綱領」を基本に組み立てられている。以下の通りである。

懺悔滅罪
受戒入位
発願利生
行持報恩


そこで、菩提心がどこに関わるかといえば、「発願利生」になる。一方で、菩薩戒は文字通りで「受戒入位」になる。ここから、現状の教義では、「菩提心を発したら、菩薩戒を受ける」という流れでは無く、「菩薩戒を受けたら、菩提心を発露する」という流れなのである。詳細は、『修証義』本文も引用しながら確認したい。

・是時十方法界の土地草木牆壁瓦礫皆仏事を作すを以て、其起す所の風水の利益に預る輩、皆甚妙不可思議の仏化に冥資せられて親き悟を顕わす、是を無為の功徳とす、是を無作の功徳とす、是れ発菩提心なり。 「第三章受戒入位」
・菩提心を発すというは、己れ未だ度らざる前に一切衆生を度さんと発願し営むなり、設い在家にもあれ、設い出家にもあれ、或は天上にもあれ、或は人間にもあれ、苦にありというとも楽にありというとも、早く自未得度先度他の心を発すべし。 「第四章発願利生」
・若し菩提心を発して後、六趣四生に輪転すと雖も、其輪転の因縁皆菩提の行願となるなり、然あれば従来の光陰は設い空く過すというとも、今生の未だ過ぎざる際だに急ぎて発願すべし、 同上
・大凡菩提心の行願には是の如くの道理静かに思惟すべし、卒爾にすること勿れ、 同上
・此発菩提心、多くは南閻浮の人身に発心すべきなり、 「第五章行持報恩」


以上の通りで、『修証義』で「菩提心」という語句は、「受戒入位」から見られるが、これは受戒の言葉の後に位置付けられている。或る意味、受戒の功徳のようなのだ。そして、「発願利生」はまさに発菩提心が説かれ、その内容が「自未得度先度他」であるとしつつ、菩提心を発して一切の衆生を済度することの大切さが示されているのである。

しかし、普通は仏道を求める菩提心を発すのが先で、具体的な修行に入る段階で菩薩戒を受けるという話である。『修証義』ではそれが逆転した理由を考えると、そもそも、「四大綱領」も「本証妙修の四大原則」だったことを踏まえておかねばなるまい。そこで、『修証義』成立に関わった当事者の見解は以下の通りである。

一旦受戒した上は何人でも為ること作すこと皆孝順心慈悲心の顕れた姿とならねば成らぬ、ソコで修証義の第四章に発願利生、第五章に行持報恩と云ふことが是非顕はれて来ねば成らぬ訳で有る、報恩と申すのは即ち孝順心で、利生と申すは即ち慈悲心じや、慈悲心の顕はれ即ち一切衆生を利益すると云ふに就ては、発願が第一じや、設ひ自分の身はドウなるとも、多くの人の為めに成る様にと云ふ心懸に成らねば成らぬ、箇様な心懸に成るのを発願とも発心とも発菩提心とも道心とも申すのです、
    大内青巒居士『修証義聞解』鴻盟社・明治24年、12頁


まず、受戒した人に顕れるべきという「孝順心・慈悲心」だが、それは曹洞宗で相伝している戒の「十重禁戒」の典拠となっている『梵網経』に由来する。

是の菩薩、応に常住の慈悲心・孝順心を起こし、方便して一切衆生を救護すべし。
    『梵網経』巻下「第一不殺生戒」


つまり、受戒した菩薩は、常住の慈悲心・孝順心を起こせと指示しているのである。青巒居士はこの一節を受けて、先の様に示され、更には慈悲心の発露としての発菩提心という解釈を組み込むことで、「受戒⇒発菩提心」という流れも導いたのだろうと思われる。ただ、これは青巒居士のオリジナルの発想ではなくて、やはり『梵網経』に由来していると思う。

善学の諸仁者、是れ菩薩の十波羅提木叉なり。応当に学すべし。中に於いて一一犯ずること微塵許の如くもすべからず。何に況んや具足して十戒を犯ぜんをや。若し犯ずること有らん者は現身に菩提心を発すことを得ず。
    『梵網経』巻下


これは、「十重禁戒」を説戒した後で総括的に出てくる一節だが、以上のように、「十重禁戒」を犯せば、この身ながらに菩提心を発すことは出来ない、とされたのである。逆にいえば、「十重禁戒」をしっかり護持していれば、菩提心を発すことも出来るといえよう。よって、青巒居士は先に挙げた面山禅師とは逆で、菩薩戒の受持を先に示したのである。

簡単ではあるが、ちょっとした確認のために記事を書いた。

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