つらつら日暮らし

三帰依ということ

まずはこちらをご覧いただきたい。

帰依とは、帰向依遵の義なり。其道によりしたがふをいふ。子の其の母をうるがごとし。
    指月慧印『三帰依増語』、カナをかなにする


さて、釈尊の教えが大切だという人がいる。しかし、そういう人は、経典が後の弟子達による編集だという事実を、どう受け止めるのだろうか?或いは、僧侶の修行だけで足りると考え、仏への信仰もせず、経典も読まない人がいる。これもまた、増上慢的な行いである。

以上に挙げた人たちは全て、「三帰依」が満ち足りていない。だからこそ、拙僧は残念だ、という思いを抱く。三帰依とは、仏・法・僧の三宝に帰依をすることである。

そもそも、帰依とは、その道に依りしたがうことを意味しており、仏法僧の三宝について、帰依以前に、「どういう僧侶が良い」とか、「こういう教えが良い」とかいう発想をすること自体、間違っている。それは、勝手なイメージに過ぎない。だいたい、そのイメージは、どうやって獲得されたのか?誰かから聞いたのか?

実際には、親や近所の人がいっていることが、僧侶などについて悪いイメージを植え付けているだけかもしれない。

拙僧つらつら鑑みるに、僧侶の生き方で何が正しいかは、僧侶に聞くべきだと思う。そして、僧侶が言ったことであれば、どれほど荒唐無稽であろうと受け入れるべきであり、それこそが「帰依」と呼ばれる行いになる。「帰依」は難しいことではないが、しかし、難しくしてしまう誤った価値観などが、世にはたくさんある。その上で、一番の問題は、こういうことをいっても、誰も拙僧の真意を理解しようとせず、表面だけで受け止めて、気分を害したり、酷い場合には抗議の捨てコメントなどをしていくことである。

ここで、拙僧がいいたいこととは何か?これまでも問題提起は繰り返し行ってきたが、拙僧は僧侶が好き勝手にすればいい、といっているのではない。或いは、どんな教えでも良いといっているのでもない。僧侶の善し悪しを判断する方法を、多くの人は知っているのか?と問うている。

ここには或る種の逆説もあって、帰依している僧侶、教え、仏こそが素晴らしいといえる。帰依という行為によって、在家人にとって素晴らしい存在となる。帰依せざるに素晴らしい僧侶、教え、仏など無い。拙僧の真意とは、そういうことだ。

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