つらつら日暮らし

『遊行経』に見る葬儀否定論

岩波文庫でも読むことができる、『大般涅槃経』(『ブッダ最後の旅』、南伝のパーリ仏典を訳した)では、釈尊の葬儀について、阿難陀尊者にはかかずらうな、といったという。その点、北伝でも『遊行経』という経典で、同じことをいっているので、見ておきたい。

 時に阿難、即ち座より起ちて、前の仏に白して言わく、「仏の滅度の後、葬法は云何」。
 仏、阿難に告ぐ、「汝、且く黙然して、汝の所業を思え、諸もろの清信士、自ら楽いて之を為す」。
 時に阿難、復た重ねて三啓す、「仏の滅度の後、葬法は云何」。
 仏、言わく、「葬法を知らんと欲せば、当に転輪聖王の如くすべし」。
 阿難、又た白す、「転輪聖王の葬法は云何」。
 仏、阿難に告ぐ、「聖王の葬法、先づ香湯を以て其の体を洗浴し、新劫貝を以て周遍し身に纏い、五百張の畳を以て、次いで之を纏うが如し。内身を金棺の内にし、麻油を以て潅し畢りて、金棺を挙げて第二大鉄槨中に置き、栴檀香、槨に次いで外に重ね、衆名香を積み、厚衣もて其の上にて之を闍維す。舎利を收し訖りて、四衢道に於いて塔廟を起立す、表刹に絵を懸け、国の行人をして、皆、法王の塔を見せしむれば、思慕して正しく化す、多く饒益する所なり。
 阿難、汝、我を葬せんと欲せば、先づ香湯を以て洗浴し、新劫貝を用いて周遍して身に纏い、五百張の疊を以て次いで之を纏うが如し。身を金棺の内にし、麻油を以て潅し畢れば、金棺を挙げて第二大鉄槨中に置き、旃檀香、槨次の外に重ね、衆の名香を積み、厚衣もて其の上にて、之を闍維す。舎利を収め訖れば、四衢道に於いて塔廟を起立し、表刹に絵を懸けて、諸もろの行人をして、皆、仏塔を見さしめよ、如来を思慕するは法王道の化なり、生きながら福利を獲て、死すれば上天することを得ん」。
    『遊行経』第二之中、『長阿含経』巻3


北伝系の場合、以上のように少し曖昧なところを残す。要するに、晩年の釈尊の侍者として、身の回りの世話をしていた阿難尊者は、釈尊の死が近いことを知ると、「葬法(葬儀法)」を釈尊に尋ねたのである。しかし、釈尊は一度はその阿難の申し出に対して、しばらく黙然として、自分がなすべきことを考えるように諭した。これは、この段階で阿難は阿羅漢果を得ておらず、修行未了というべき状況だったからである。そして、「清信士(在家の信者)」が自ら、仏陀の葬儀を願い出ることを指摘している。

しかし、阿難はここでは引き下がらずに、重ねて三度まで、葬法を尋ねたところ、釈尊はそこでようやく、「転輪聖王」というインドの帝王の方法に行う葬法でもって、自分自身の葬儀を行うように話したのである。

詳細は上記の通りで、釈尊の御遺体をまず、香湯で洗浴させ、そして新しい劫貝で身を覆うとあるが、これは「貝殻」のことではない。劫貝とは、綿状の物質を作るカルパーサ樹のことである。よって、綿で覆うように指示が出ていることになる。それを五百張り重ね、その身を金の棺に入れて、麻油を入れて、それに香木を重ねて火を付け、燃やすという方法であった。何だろう?推測も入るが、おそらくは釈尊の御遺体を油で煮たような感じとなり、骨だけが残るという葬法だったかと思われる。

そして、残った骨(舎利)を拾い、それを四方八方に道が広がる街道に建てられた仏塔(ストゥーパ、卒塔婆)の中に入れれば、多くの人が参詣し、その参詣した人には大きな功徳があるだろうと、示しているのである。

結局、最初こそ阿難による葬儀は否定したが、結果として阿難に指示を出しているので、完全否定というよりは、もっと大事なことがあるとは指示しつつ、阿難による葬儀を受け入れたように見えるのである。なお、阿難はこの時、かなり多くの遺言(遺教)を託されており、一部は、その詳細を聞き逃したものもあって、後に教団の後継者となった摩訶迦葉尊者から叱られていたりする。それも、その内に記事にする機会があるだろう。

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