つらつら日暮らし

面山瑞方禅師『傘松日記』に見られる道元禅師の御袈裟について

江戸時代に面山瑞方禅師が当時の永平寺40世・大虚喝玄禅師に招かれて拝登した際の記録が『傘松日記』である。面山禅師が当代随一の学僧であったことは間違いないが、大虚禅師もまた、特に宗門の戒学について第一人者であった。そのため、お二人の議論などは、後代の我々にとっても非常に益となる。

今日は、その一つとして、以下の一節を見ておきたい。

 二十四日、方丈に上って喫粥し、退く。〈中略〉粥後、方丈従り命有り、「威儀を具えて、来られたし」と。
 余、即ち盥薫して衣を整えて、上る。
 即ち命じて侍者を室外に出だし、戸を闔づ。預め拝席一枚を展べ、炉を装う。
 即ち黒漆の筐を開き、法衣を出だし、「是れ乃ち吾が祖、昔著ける所の大衣なり。袱子、福井城主の祖母・長松院瑞嶺玄祥大姉の施す所の其の様、古風にして、今の世に無き所なり」と。
 法衣、象鼻の九条。其の地、至極細美の布、黒色なり。其の紐は條なり。其の環の径、四寸余りの木なり。何木かを知らず。今、謂う所の糸環と名づくるものの如し。藤蔓を以て撓めず。謂いつべし、希有なり。
    『傘松日記』、『続曹全』「法語」巻・455頁上~下段、訓読は拙僧


少し分かりにくいかも知れないが、これは、『傘松日記』が書かれていた享保19年(1734)9月当時、永平寺方丈に「吾が祖の大衣」が保管されていたことを示す一文である。それで、大虚禅師が「吾が祖」と呼ぶのは、御開山の道元禅師のことである。つまり、ここで面山禅師が伝えているのは、道元禅師が着けていたと伝えられている御袈裟、特に大衣(九条以上の僧伽黎衣)の形状なのである。

分析してみると、「象鼻の九条」であるとしている。この件については、後に詳しく述べる。そして、「至極細美の布、黒色なり」とあって、黒色の布地であったと示している。更に、「其の紐は條なり」とあるが、これは現代の我々が用いる御袈裟と同じであろう。ただし、「其の環の径、四寸余りの木なり。何木かを知らず」とあって、木の環付きであったことを示す。また、面山禅師は「今、謂う所の糸環と名づくるものの如し。藤蔓を以て撓めず」とあって、曲がっていないまっすぐな紐でもって作られていることになる。

拙僧は以前から、永平寺には長年、道元禅師の御袈裟の「環」が保存されていたことに注目しており、よって、環がある御袈裟が、「吾が祖の大衣」として残されていたことに違和感は無い。それを全て変えてしまったのは、江戸時代末期だったのだろう。

そこで、問題なのは「象鼻の九条」である。この「象鼻」の解釈についてどう見ていくべきか?拙僧自身はここに注目している。そこで、面山禅師ご自身が御袈裟に関する『釈氏法衣訓』を著しておられるので、そこから定義を見ておきたい。なお、詳細は論じないけれども、実はこの当時、「象鼻衣」を巡って、面山禅師と、逆水洞流禅師との間で議論が存在していた。ただ、今回は面山禅師自身の定義のみ確認する。

今考るに、支那にて皇帝の中に信心あるは、時の僧宝を寵して勅号を賜り、亦は紫衣金襴衣を賜る宋朝最多し。在俗は法・非法の分弁なきゆへに、掛て恰好する様に製て賜る。俗服を下に著て、衫を上に著て、その上に袈裟を著るに、偏袒右肩なれば、右の脇の下より、引回して掛るゆへに、袖の下になる処て、重襲て、威儀がつくろひがたきゆへに、便の能き様に、袈裟を剜りて、かけ好き様に製りて勅賜せられしより、それを理と思ふもの多く、次第に流布して、日本より入宋せし僧中は、これを真似て、袈裟を製せられしゆへに、今も京・鎌倉の五山の室中に、多く遺在して什物とせり。これみな仏製に違背する処の不如法衣なり。袈裟角が下に垂るゆへに俗説に象鼻と云をば、律僧が鼠色の布衣を如法衣と衣店に教へて、違製の衣を、象鼻と謗ぜしより、衣店が言ひ触れたる詞なり。
    校正再刻本『釈氏法衣訓』「第八象鼻衣訓」、24丁表~裏、カナをかなにするなど見易く改める


ここで、面山禅師が指摘する「袈裟を剜りて」とあるのは、京都や鎌倉の五山に安置される伝衣については、長方形の形状では無く、真ん中か右側のみが剔れた形をしているのである。例えば、2010年に京都国立博物館で行われた「高僧と袈裟」展の図録の表紙を見てみると、その様子が分かる。



そして、おそらく、永平寺室中に伝わっていたのは、このような袈裟であったと思われ、これを面山禅師は「象鼻の九条」と呼んでいると思われる。なお、この典拠として、拙僧的には、道元禅師はいわゆる「律」に基づく袈裟を批判し、仏祖正伝の袈裟を強調していることが知られている。

 しかあればすなはち、いま発心のともがら、袈裟を受持すべくば、正伝の袈裟を受持すべし、今案の新作袈裟を受持すべからず。正伝の袈裟といふは、少林・曹渓正伝しきたれる、如来の嫡嫡相承なり。一代も虧闕なし。その法子法孫の著しきたれる、これ正伝袈裟なり、唐土の新作は正伝にあらず。いま古今に、西天よりきたれる僧徒の所著の袈裟、みな仏祖正伝の袈裟のごとく著せり。一人としても、いま震旦新作の、律学のともがらの所製の袈裟のごとくなるなし。くらきともがら、律学の袈裟を信ず、あきらかなるものは抛却するなり。
 おほよそ仏仏祖祖相伝の袈裟の功徳、あきらかにして信受しやすし。正伝、まさしく相承せり、本様、まのあたりつたはれり、いまに現在せり。受持、あひ嗣法して、いまにいたる。受持せる祖師、ともにこれ証契伝法の師資なり。
    『正法眼蔵』「袈裟功徳」巻


ここで、道元禅師が「仏祖正伝」としているのは禅宗様の袈裟であり、律学を否定している。また、その正伝の袈裟については、「まのあたりつたはれり」としているため、実際にご覧になったものになるといえよう。そこで、面山禅師は先のように長方形では無い袈裟については、宋代に作ったものだということを主張しているが、果たしてそれは、道元禅師と共有されているのだろうか。拙僧は、道元禅師が「仏祖正伝」とされる袈裟こそ、「象鼻衣」であると判断している。そして、そのような形状の「吾が祖の大衣」を永平寺では伝えていたのではないだろうか。

晩年、面山禅師は京を中心に、真言宗泉涌寺派や、臨済宗南禅寺派・建仁寺派と交友を深めており、恐らくは律学も学び直されたことだろう。そうなったとき、晩年に成立した『釈氏法衣訓』のような主張になることは理解出来る。しかし、まだ壮年の頃に永平寺でご覧になった「吾が祖の大衣」の形状は「象鼻」だったのである。そして、繰り返しになるが、拙僧は道元禅師が「仏祖正伝」とされる袈裟が、面山禅師が批判した「象鼻」だと思っているのである。

まずは、試論的な記事ではあるが、以上である。

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