十四 懺悔に二つある事
問ふて曰く、二つの懺悔のうちには、何れをなすべきぞや。
答へて云ふ、人の心にまかすべしといへども、万心のなきことにて候へば、無想無念肝要にて候。有想にて念おこり候にも、根本なく心なしと悟り候はゞ、念のあるもなきにて候。誠に身ありて罪を作り、実に心ありて罪をつくるとは思ふべからず。
『二十三問答』、山田孝道老師編『禅門法語集―校補点註』光融館・明治28年、84頁
この「二つの懺悔」という話だが、詳細は冒頭のリンク先をご覧いただきたい。いわば、「事懺」「理懺」ということだが、ここではその更に根本について論じている。何故ならば、その懺悔の内、どちらをすれば良いか?という問いに対して、夢窓国師の答えは、その根本を答えているためである。
そして、その根本とは、「万心のなきことにて候」とある通りで、徹底無心を説いている。この徹底無心と懺悔との関係は、以下の一節などが参考になるだろうか。
初発心の時、三世の諸仏と平等なるが故に、此の心、尚お三世の諸仏無し、甚れの処に向かって模索せん。所以に一念の無心の功徳なり。又た較量する処無し、若し爾らば則ち、亦た無生亦た無死なり、亦た無聖亦た無凡なり、亦た無人亦た無我なり、亦た無仏亦た無法なり。若し能く是の如く見得すれば、是れ真の懺悔なり。
『大慧普覚禅師普説』巻13
大慧宗杲禅師の教えだが、非常に宋代の臨済宗らしい教えと言うべきなのかも知れないが、更なる典拠を探っていくと、おそらくは以下の一節などが思想的根底にあると思われる。
是の如き法相、不生、不滅なれば、何ものか是れ罪、何ものか是れ福なるや。
我心、自ら空なり、罪福に主無し。一切の法、是の如く、住すること無く、壊すること無し。是の如く懺悔し、心の無心にして、法の法中に住せざるを観れば、諸法解脱し、滅諦寂静なり。是の如く想えば、大懺悔と名づけ、荘厳懺悔と名づけ、無罪相懺悔と名づけ、破壊心識と名づく。
『観普賢菩薩行法経』
この一節は、大いに省略して永明延寿『宗鏡録』にも引用されるところだが、要するに我心の空、心の無心を正しく観察すれば、それで「大懺悔」が成り立つという。よって、先に挙げた夢窓国師の教えはこの『観普賢菩薩行法経』や大慧禅師の懺悔観に基づいて述べられていることが理解出来よう。
ただし、この無念無想に到るのに、その方法論が示されていない。一応、冒頭のリンク先では、坐禅によって身心を鎮めることが主張されているが、それがここに適用されるかどうかは、直接は不明である。
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