つらつら日暮らし

今日は「無情説法」を学ぶ

今日10月2日を勝手に、「無情説法」を学ぶ日であると決めている拙僧。早速以下の一節を見ていきたい。

説法於説法するは、仏祖附嘱於仏祖の見成公案なり。この説法は法説なり。
    『正法眼蔵』「無情説法」巻、冒頭


同巻の冒頭は、以上のように始まっている。この一節を正しく理解することこそが、本巻に於ける主題の「説法」について把握することに繋がる。ところで、この最初の一句について、どう理解すれば良いのだろうか?説法を説法することは、仏祖が仏祖に附属する見成公案であるとしている。

然るに、ここで「法」という語句が見えたことに、我々は余程注意しなくてはならない。道元禅師にとって、「法」や「仏」という語句は普遍的事象を示している。つまり、「法」に因む事象に於いて、相対的な発想の全ては否定される。よって、「説法」という語句を理解することは、極めて難しい。何故ならば、我々は通常、説法を以下の構図で捉えてしまうからだ。

説法する人(僧侶) ⇒(説法)⇒ 聞法する人(衆生)

ところが、これであれば、説法について能所が発生してしまう。相対的な発想にとらわれてしまう。だが、道元禅師は「この説法は法説なり」とし、説と法とが相対しないことを明言されている。いわば、説の時には法であり、法の時には説である。この時、「説」の意味が厳密に問われる。道元禅師に於いて、「説」とは「現れ」である。法の現れが説法だということになる。それでは、法とは何か?一切の事象である。一切の事象の現れが説法である。

そこで、この一節について、道元禅師の直弟子達がどのように指摘しているかを見てみよう。

今所談の説法と云姿は、只説法が説法するなり。更に能説・所説の儀に非ず。ゆへに説法於説法と云なり。〈中略〉如此談ずれば、能所をはなれ、彼此相対の旧見を止也。然者此説法の道理が法説といはるべき也。此説法の姿、実に争有情無情、有為無為、従縁起等の法なるべき。勿論事なり。
    経豪禅師『正法眼蔵抄』「無情説法」篇


まさに、能所二見を破することこそが肝心であり、それが止めば、説法が法説として会得されるのである。今回の一節でいわれているのは、ただそれだけなのだが、問題は何故これが重要なのか?ということである。そこに、我々の坐禅が関連してくる。そもそも、我々の坐禅は相対的な見解を破することが求められている。つまりは無分別ということだが、無分別のままでいることは同時に、ただの事象の否定で終わる。だが、経豪禅師が指摘するように、「有情」と同時に「無情」も、「有為」と同時に「無為」も否定されている。

そうなると、我々の目の前の世界は、有でも無く無でも無く、ただとらわれだけがないということになる。それこそが、脱落なる身心ということになるが、脱落なるままにただ働きがある世界の現成を、説法とはいわれるのである。その点さえ正しく会得できれば、この一環が「無情説法」であるということも味わえていくことだろう。

※今日、この一巻を参究したのは、同巻の奥書に「爾時寛元元年癸卯十月二日、在越州吉田県吉峰寺示衆」とあるためである。

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