○太政官布告第六十三号 明治五年二月二十八日
従来の僧位・僧官等、永宣示を以て諸寺院より差許置候分、自今総て廃止せられ候條、此の旨相心得、各府県管内寺院へ相達すべき事。
米村鐐次郎編『現行社寺法令類纂』明治24年、2頁
このように、「僧位・僧官」について、少なくとも国が定めていたようなものは、明治5年の段階で廃止されたということなのだろう。そうなると、雲照律師には、この辺の政策に対する何らかの意図があったのかな?と思えてくる。この辺、もし何か分かることがあれば、今後も検討したい。
ということで、ここ数回、釈雲照律師『緇門正儀』の「第一官律名義弁」の内容を見ている。なお、これは【1回目の記事】でも採り上げたように、「今略して、僧に位官を賜ひし和漢の官名、職名及び初例を挙示せん」とあって、職名の意味というよりは、任命された最初の事例を挙げることを目的としているようである。よって、この連載では、本書の内容を見つつ、各役職の意義については、当方で調べて、学びとしたい。
一 国師
西域の法、其の人を推重す。内外の同じきに攸せ、正邪、倶に有り。昔、尼犍子、婆羅門法を信ず、国王封じて国師と為す、内には則ち学、三蔵に通じ、兼て五明に達す。国を挙げて帰依す。乃ち斯の号を彰す。声教、東漸して、唯だ北斉に高僧法常有り、初めて毘尼を演べ、鄴下に声有り。後に涅槃を講じ、并に禅数を受く。斉王崇て国師と為す。国師の号、常公より始まるなり。
『緇門正儀』5丁裏、訓読は原典を参照しつつ当方
いわゆる「国師」である。上記の通り、インドで既に、「国師」に該当する人物がいたことを示す。ただし、上記一節を見ても、ちょっと良く分からない。だいたい、「尼犍子」とは、ジャイナ教の教祖であるニガンタ・ナータプッタのことを指すと思われるのだが、多分、漢訳の段階で良く分からなくなっていて、上記一節も、婆羅門なのか、三蔵に通じた人なのか、良く分からなくなっている。
結果として、後に成立した『釈氏要覧』などでは、「婆羅門」云々の箇所を削除してしまった。
それから、中国では、高僧の「法常」が、律を述べ、『涅槃経』を講義し、禅教を授ける人であったので、国師になったという。中国の「国師」はこの人から始まったという。なお、上記では「北斉」という国名が出ているが、これは南北朝時代の550~577年という短い期間のみ王朝として存続し、北周に滅ぼされた。ところで、上記一節だと年代などが分からないが、『仏祖統紀』では以下のように示す。
天保元年、詔して高僧法常、入内し涅槃経を講ず。拝して国師と為す〈国師、此に始まる〉。
『仏祖統紀』巻38
こうなると、天保元年とは西暦550年のことで、北斉が成立してすぐのことだとされている。なお、国師というと、後は以下の一節なども知られる。
殆んど陳・隋の代、天台智顗禅師有りて、陳の宣、隋の煬の菩薩戒師と為る。故に時に国師と号す〈即ち封署無し〉。
『大宋僧史略』巻中
なお、先に挙げた『緇門正義』の一節は、この『大宋僧史略』巻中からの引用だが、その続きの文章を引いてみた。すると、中国天台宗の実質的な開祖である天台智顗の話が出てくる。ただし、時代的には法常の後である。
また、智顗の後は、禅宗の神秀禅師や、南陽慧忠禅師の話が出てくる。慧忠禅師は、いわゆる「他心通」の話で、「国師」と呼ばれるので、禅宗を学ぶ人には親しみがあることだろう。ついでなので、その一節も引用しておくべきだろうか。
後に禅門の慧忠有りて、肅・代の時、宮・禁中に入り、禅観法を説き、亦た国師と号す。
同上
上記の通り、唐朝の粛宗・代宗の時代に皇帝などに禅観法を説いたので、国師と呼ばれたという。だいたい、他の文献でも同じように書かれているので、これはこの通りだったのだろう。日本の事例については、また別の機会に論じることもあるだろう。
【参考資料】
釈雲照律師『緇門正儀』森江佐七・明治13年
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