そこで、今日は「山」に因んだ祖師方の教えを学んでみたい。
山は、超古超今より大聖の所居なり。賢人・聖人、ともに山を堂奥とせり、山を身心とせり。賢人・聖人によりて、山は現成せるなり。おほよそ、山は、いくそばくの大聖・大賢いりあつまれるらんとおぼゆれども、山は、いりぬるよりこのかたは、一人にあふ一人もなきなり、ただ山の活計の現成するのみなり。さらにいりきたりつる蹤跡、なほのこらす。世間にて山をのぞむ時節と、山中にて山にあふ時節と、頂𩕳・眼睛、はるかにことなり。
道元禅師『正法眼蔵』「山水経」巻
以前から、何度か拙ブログで学ばせていただいている御垂示であるが、改めて学び直してみたい。ここでお示しいただいていることとは、山とは古今を越えて、大聖というべき聖者(仏陀)などが居られる場所だという。山そのものを堂奥(真実が伝わる場所)とし、山を身心としているのだが、転ずれば、賢聖という存在によって、山が現成するという。いわば、賢聖がいるからこそ、山は山として現成するのである。
しかし、どのように賢聖がいるのかは、注意が必要である。ここでは、大いなる賢聖が集まっていると思いきや、山へと入ってからは、誰一人に会うことは無く、ただ山の働きが現成しているのみだという。更には、入ってきた跡形も残っていないという。つまり、山という場所の功徳として、跡形が残らず、誰一人とも会わない、転ずれば仏法そのものだということになる。
この辺を、世間から山を望んでいる時節と、三中で山にいる時節とでは、その様子が全く異なることをいう。この御垂示について、道元禅師の直弟子達が、どのように把握されているのかを学んでおきたい。
此大聖賢人聖人等山にすむ、先蹤等をあげらるるに似たれども、是は併山の究尽する道理、又山の上の功徳荘厳なるべし、所詮此賢人聖人等の姿、悉是全山なる理なるべし、已下如文、
経豪禅師『正法眼蔵抄』「山水経」篇
まずは、最初の部分であるけれども、ここでは、賢人・聖人という存在について、「悉是全山なる理」だとされている。重要なのは、「悉」と「全」であると思う。いわば、「正伝の仏法」としての道得(表現)として、一見して相対的な事象を、絶対的な事象として解釈し、それに基づく表現を行うことを指す。よって、賢人・聖人という存在は、それとして個別的存在ではあるが、しかし、それは個別的であるが故に、仏法の表現とはならない(つまり、仏法とは、分別的思考を排除する)のである。よって、それを「悉」「全」として解釈し直したのである。
全山なるあひだ、入ぬるより以来は、一人にあふ一人もなき道理なり、是併山の活計現成の道理なるべし、
同上
ここも、「全山」という表現から、入ってしまえば全山であるが、一人に会う一人も無いということとなる。それで、後分からないのは、「併山」という表現である。ただし、おそらくは「ならびに山」である。これは、千峰万峰ということになる。よって、あらゆる山の現成になるだろう。
山中にて山に逢時節とは、全山なる道理なり、山が山にあふなり、
同上
こちらも、先ほどからの道理と同じ内容である。ただし、注意しなくてはならないのは、「全山なる道理」について、「山が山にあふ」としていることである。これは、先ほどの道元禅師の『正法眼蔵』本文には、無い表現である。ただし、おそらく参照されたと思うのは、「諸悪莫作は、井の驢をみるのみにあらず、井の井をみるなり。驢の驢をみるなり、人の人をみるなり、山の山をみるなり」(「諸悪莫作」巻)の一節ではないかと思われる。この「諸悪莫作」巻の理解も、また機会があればご紹介したいが、結局、正伝の仏法に於ける「諸悪莫作」とは、「善と悪の相対性」だったりとか、そういう発想を破するために、「AがAを見る」という表現がされている(当然に「見る」の意味自体を再考する必要がある)。
つまり、我々衆生であっても、大聖の所居たる「山」に入る時には、ただ「山が山にあふ」と経験されているのである。
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