又因に有縁の俗士達に言人は万物の霊長たり、然らば人間に生れたと思ひでに万物の靈たる徳を全ふに磋き顕はし天地人三才の列に立て一切の血気ある類を覆載撫育志玉ふべし、
『放生よろこび草』24丁裏~25丁表
上記の通り、「人は万物の霊長」という表現が見える。ここで、あれっ?!となった。なんか、人などの一部の動物を「霊長類」と表現するけれども、それが出来たのはもちろん、日本なら明治時代以降になると思うのだけれども、その前に「万物の霊長」という表現があることが分かった。
そうなると、この言葉に更に出典があると思われるのだが、ネットで簡単に調べると、儒教で用いる『書経』にあるという。
惟るに天地は万物の父母なり、
惟るに人は万物の霊なり、
『周書』「泰誓上」
幾つかのテキストを調べたのだが、どうも、『書経』の『周書』の場合は、「人は万物の霊」とはあるが、「霊長」では無い。そこで、中国の仏典を調べてみても、「人万物之霊」という語句は大変に多くを見ることが出来るが、「万物之霊長」は出て来ないのである。もしかすると、「霊長」は日本で出来た言葉なのでは無いか?と思えてくる。日本で中世後期から、江戸時代にかけて編まれた天台宗系の註釈書に「人万物霊長」という語句が出て来る。
とはいえ、上記の文献は成立年代が曖昧なので、典拠としては曖昧である。よって、更に調べてみると、室町時代に編まれた『毛詩抄(『詩経』の一である『毛詩』への註釈書)』の中に出ているという情報があった。そこで見てみると、確かに、以下のようにあった。
況や人は万物の霊長て智のある物か友を求ぬと云事かあらうか
『毛詩抄』巻9
確かに、「人は万物の霊長」という語句があるように見える・・・けど、あれ?「霊長て」とある(写本と版本を見た)が、ここは「霊長で」と捉えるべきなのだろう。意味は、「ましてや、人は万物の霊長であるから、智のあるものが友を求めないということがあるだろうか」という文章になる。これで十分に通じるのだが、一部の版本では、句読点を(後から)書き入れているものもあり、その場合だと、「況や人は万物の霊、長て智の」と読む場合があることに気付いた。
それだと、「ましてや、人は万物の霊である。長じて、智のあるものが友を求めないということがあるだろうか」となる。これは、おそらくは、『周書』に「人は万物の霊」という単語があることを知っている人が、そこで切って読むべきだと判断したのであろう。実際の写本も版本も、句読点がまだ付かない時代だから、ここで切ることは出来るとも言えるし、出来ないとも言えるし、意味的にもどちらも通用する。
後は、個人的な雑感に近いのだが、もし、『毛詩抄』が典拠になるのなら、「人は万物の霊長」と読むと断言するのは難しいと思う。とはいえ、もう少し後に出来た天台宗系の注釈書に「人万物霊長」とあるし、江戸時代後期にも「万物の霊長」と読む事例があるのだから、その読み方が主流になったのだろう。だが、『毛詩抄』自体は、少し曖昧な要素を残していることが分かった。
なお、最初の『放生よろこび草』に話を戻すと、万物の霊長である人は、謙虚に思い、この天地にある全ての生きとし生けるものの存続を願って、放生会を実施すべきだという話になっている。霊長だから、他の生き物を支配するのではなく、むしろ、その逆を願うという内容なのである。
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