つらつら日暮らし

道元禅師による達磨尊者西来への評価について

以前、或る方とネット上で遣り取りした時、その方は「道元禅師は達磨宗を批判したので、達磨を否定した」というような趣旨のことをいっていた。噴飯物とはこういう言説をいうのだろうが、何故か一部の「陰謀論」が好きな方々には、道元禅師と達磨宗との関係に心を揺さぶられるらしく、勝手な独断、邪推に基づく言説を垂れ流すのである。

迷惑極まりない。

ただし、そういった方々には何を言っても無駄なので、この記事では道元禅師による達磨尊者西来への評価を見ておきたいが、【菩提達磨大和尚への或る評価】の続きというか、昨日の記事は余りに簡潔に過ぎたので、加筆しておきたいのである。

 上堂。
 初祖西来して震旦温至なり。前後、妙なりと雖も嵩嶽に独り親しし。
 迢迢たり航海三周、兀兀たり面壁九歳、
 児孫天下に遍満し、嫡嗣適たま吾が朝に臨む。
 謂つべし、
 国、初めて戒定慧の本主を感得するは、民の王を得るが如し。
 人、方に身口意の善根を決定するは、闇に灯を得るが如し。
 誠に是れ、
 優曇華、一切の愛敬を開き、獅子の哮吼妖怪倶に休す。
 是を以てか、
 青原、廬陵米に於いて価を定め、南嶽の説似、即不中なり。
 日面月面、眼睛豁開す。
 明頭暗頭、鼻孔高直す。
 黄梅・黄檗、拄杖を拗折し、
 雲巌・雲居、蒲団を拈来す。
 既に恁麼に得たり、空しく過ごすべからず、
 直に須らく熾然に頭燃を救い、猛利に勇猛を勤めよ。
 正当恁麼時、作麼生か行履せん。還た委悉せんと要すや。
 良久して云く、
 磨塼作鏡誰人か笑わん、翠竹黄華画図に入る。
 管すること莫れ商量浩浩地、種田必ず是れ功夫を作す。
    『永平広録』巻7-497上堂


まるで「疏」のような文体ではあるが、これは達磨尊者のことを尊崇し、その御威徳を讃えた上堂語である。そして、最も良く見ておきたいのは、「国、初めて戒定慧の本主を感得し、民の王を得るが如し」の一節で、道元禅師は達磨尊者のことを、「戒定慧の本主」とし、「民が王を得たようなものだ」と評しているのである。

そして、実は道元禅師の言説に同様の表現を見ることは、決して難しくはない。上記に挙げた上堂語は、建長4年(1252)4月頃だと推定されるが、同年1月にも以下のように示しておられる。

 上堂。
 仏法、二度震旦に入る。
 一は跋陀婆羅菩薩伝来し、瓦官寺に在りて秦朝の肇法師に伝う。
 一は嵩山高祖菩提達磨尊者、少林寺に在りて斉国の慧可に伝う。
 肇法師の伝、今既に断絶し、可大師の稟授、九州に弘まる。
 我が儻、宿殖般若の種子に酬いて、殊勝最上の単伝に値いて修習することを得。当に頭燃を救いて精進すべし。
    『永平広録』巻7-482上堂


このように、道元禅師は教宗としての仏法は、一度中国に入ったものの断絶し、その後達磨尊者が伝えた仏法は、慧可大師によって禀受され、九州(中国全土)に広まったという。そしてその正法を日本に伝来されたわけである。なお、道元禅師御自身は、教宗と正法との時代的な斷絶をどう認識しておられたのだろうか。

我が朝に名相の仏法伝来して、仏法の名相を伝聞してこのかた、僅かに四百余歳なり。而今の仏心宗の流通、正にこの時節に当たる。神丹国後漢の明帝の永平年中に、始めて名相の仏法を伝う。以後、梁朝の普通八年に至る、時代を検するに僅か四百余年なり。その時に当たって、始めて西来直指の祖道を流通す。
    『示近衛殿法語』


本法語は、後代の伝承であるので、どこまで信じられるか、という問題は残るけれども、しかしながら上記の時代的認識はおそらく正しい。何故ならば、以下のような一節も知られているためである。

漢土にも、昔、師によらず、自解する者、ままに有りき。皆な邪見に堕き。然れども、彼国には明師宗匠あれば、邪見を救ふ方便をめぐらす。我国には無し、いかがせん。三四百歳の前後に、仏教、わが国に伝はれりと云へども、明眼宗師なし、明文の学者、尚ほ稀なり。縦へ薬なれども、服する方にくらければ、曾毒をなす事深し。仏教の甘露、汝服せば、毒と成るべし。
    草案本『弁道話』


つまり、道元禅師は中国で永平年間に最初の仏法が伝わって、その後400年後に達磨尊者の正法が伝わったという。一方、日本でも同様に、最初に仏法が伝わった後で、3~400年もの間更に伝わったが、その間に明眼の宗師がいなかった。そして、つまりは道元禅師御自身が正法を日本に将来したと主張されたのだが、その際に、御自身の業績を達磨尊者のそれに準えておられるのである。

夫れ、日本仏法流布せしより七百余歳に、初て師、正法を興す。謂ゆる仏滅後一千五百年、欽明天皇一十三壬申歳、初て新羅国より仏像等渡り、十四歳癸酉に即ち仏像二軸を入れて渡す。然しより漸く仏法の霊験顕はれて、後十一年と云ひしに、聖徳太子仏舎利を握りて生る。用明天皇三年なり。法華、勝鬘等の経を講ぜしより以来、名相教文天下に布く。橘の太后所請として唐の斎安国師下の人、南都に来りしかども、其碑文のみ残りありて、児孫相嗣せざれば、風規伝はらず。後、覚阿上人は瞎堂仏眼遠禅師の真子として帰朝せしかども、宗風興らず。又東林恵敞和尚の宗風、栄西僧正相嗣して、黄龍八世として、宗風を興さんとして、興禅護国論等を作て奏聞せしかども、南都北京より支へられて、純一ならず。顕密心の三宗を置く、然るに師其嫡孫として、臨済の風気に通徹すと雖も、尚ほ浄和尚を訪ひて、一生の事を辨し、本国に帰り、正法を弘通す。実に是れ国の運なり。人の幸なり。怡かも西天二十八祖達磨大師の初て唐土に入るが如し。是れ唐土の初祖とす。師亦是の如し。大宋国五十一祖なりと雖も、今は日本の元祖なり。故に師は此門下の初祖と称し奉る。
    瑩山紹瑾禅師御提唱『伝光録』第五十一祖章


そして、道元禅師の歴史認識は、以上の通り四世の法孫である瑩山紹瑾禅師に受け嗣がれ、上記の通りの御提唱となっている。詳しく見れば、明らかに道元禅師を達磨尊者に準えている。つまり、達磨尊者こそが正法の伝持者であり、曹洞宗の法脈はその後孫に位置することを主張されたのである。同時に、従来伝わっていた仏法を超克しつつ行われたものだったのである。

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