彼岸とは、「彼の岸」といふて、譬喩の詞ぢや。銘々お互の現在の位置を此方の岸に譬へ、後々は是非斯くせねばならぬ、斯くありたいものぢやと思ふ、一大事の目的、今日の話なら理想とでもいふ処であらう。その理想も浅墓な凡夫量見から出たのでは何にもならぬ。万古不抜の道理から生出した金剛堅固の理想、それを彼の岸に喩へたものぢや。
『森田悟由禅師法話集』鴻盟社・明治43年
まずはこんなところから。「譬喩」というのは、先般から繰り返し拙ブログで述べているようなことにも適用される。要するに、「彼岸」「此岸」というのは、それぞれ、理想的な境涯・凡夫の迷いを喩えた言葉なのである。ただ、譬えであってもそれがあって、我々自身のイメージが良くなり、それにより転迷開悟の境涯を得られるのであれば、この彼岸とはまさしく方便となる。
しかし、この彼岸が「方便」だけかというと、「方便」というのはその場限りの巧みな言句や振る舞いを指すけれども、「彼岸」とは、森田禅師が御垂示されるように「金剛堅固の理想」であるから、「方便」であると同時に、完全な理想郷、仏教的には実相でなくてはならない。明らかにそこに依っても問題が無い理想である。
それこそ、歴史的事実か分からないけれども、聖徳太子が「世間虚仮、唯仏是真」と述べ、或いは、恵心僧都源信が「厭離穢土、欣求浄土」と述べたのは何故であったのか?それは、信用ならない無常の世への虚しさと、仏法の常住なる様子への憧憬では無かったか。それは同時に、「此岸、彼岸」の対比に適用される。
現代の宗教に対する世俗化への願望は、この理想と現実の対比を無効化し、理想を現実に近づけようとするけれども、それは意味が無い。理想とは、現実との一定の距離があり、現実を相対化できる絶対的な視点や地位を獲得出来るからこそ、初めて意味があるものだ。その意味では、現実社会の栄華も衰退も、ともに相対化されてしまうものである。
現代の価値観では、この相対化をもたらす最大の契機は、「人の死」であろう。この世界が現世のみであると考える現世中心主義であれば尚更である。死ねば、現実社会の栄華も衰退もともに相対化され、実質的な価値を、死に行く当人との間では失効する。よって、死は絶望である。またこれは、例えば、大乗仏教の発想とは相容れない。道元禅師は、死をも仏性の働きであるとした。そこには、死すらなお、意味ある価値観を生み出せそうな勢いがある。
その勢いの基盤こそ、今日の記事に準えれば、彼岸ということになる。その可能性を考える、それもまたこの彼岸会の意義となるだろう。
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