大科第七 問遮(続き)
七定業とは、
一は、悪心出仏身血の罪、
戒師、受者に問うて曰く、汝等、過去無数劫より、乃至今身まで、仏身生身より血を出さざるや、否や。
答えて曰く、否なり。
私に問うて曰く、出仏身血の罪は、如来の在世に限る。末代には之れ有るべからず。何等の罪を以てか、之の罪に同ぜんや。
答えて曰く、仏宝に就いて、三種有り、
一には一体三宝、
二には別相三宝、
三には住持三宝なり、
一体とは、戒は同体と名づく、是れ理仏なり、法身是れなり。但だ心の覚体なるのみ。
二に別相とは、則ち両義有り、
一には、釈迦は釈迦に限て、三宝を論ず、いわゆる釈迦は仏宝、其の所覚・所知・所説は法宝なり、其の三乗の弟子は僧宝なり、余仏も皆、亦た是の如し。
二に、仏と云は、十方の諸仏を以て総て仏宝と為す、十方の諸仏の所覚・所知・所説を、同じく法宝と為す、十方の諸仏の三乗の弟子を、同じく僧宝と為す、是れなり。
三は住持三宝なり、
いわゆる仏宝とは、仏像を以て或いは図絵し、或いは金銀を以て之を鋳る、或いは木に刻み、石に鐫す、土に図す、是の如きの仏像を夭し、塔婆、之を破るを、是れ出仏身血の罪の摂なり、或いは率都婆を以て橋に渡し、之を横へ、垣に結つたるを、上の罪に同じ。
法宝と云は、或いは彼の色の経巻を板に画き、石に画き、紙に画き、皮に画き、絹に画き、或いは紙帛に摺て写し、等是れなり。
僧宝と云は、大乗の報身の菩薩は、文殊・普賢・観音・勢至・日光・月光等の是の垂髪の像、是れなり。小乗の比丘像の菩薩、及び証果の二乗等是れなり、已上聖僧。次に現在の凡夫僧、亦僧宝の摂なり、此に六衆有り、一に沙弥、即ち二有り、一には形同の沙弥、受戒の差別有りと雖も、其の形相同じを以ての故に、沙弥と名づく。二には法同の沙弥、是は若して少発心の輩を、其の初発心の時より、十八歳に至るまで、十戒を受くる者、沙弥の位なり。又沙弥尼とは、是れ同じく十八歳、沙弥尼の位なり、男女の異有りと雖も、同じく十戒を受く。其の十戒と云は、一には人殺生、二には盗、三には婬、四には妄語、五には飲酒、六には不著香油塗身、七には不座高床、八には歌舞観聴、九には非時食、十には投宝、是れなり。此の戒は沙弥・沙弥尼同く之を受く。沙弥尼に就ては、式叉摩尼の位有るなり、已前の沙弥尼、二十歳に至るの間、六法戒を受るを、名けて式叉摩尼と為す、其の六法戒と云は、一には摩触、二には盗四銭、三には殺畜生、四には少妄語、五には非時食、六には飲酒、是なり。
凡そ五戒・八戒・十戒等は、男女共に同く之を受く。更に差別無きなり。
又、五戒・八戒・十戒及び具足戒、若し鈍根に約れば、通じて世善と為す。若し、利根上智の人に約れば、共に孝養の善と為すなり。
又、二十歳に至て、具足戒を受るに、男女の差別有り、比丘は二百五十戒、比丘に五百戒なり。
又、五戒と云は、人天の戒なり。若し三聖の教に約れば、五常と名くなり。
即ち、
一に仁と云は、慈悲なり、殺生すべからず。
二に義と云は、不貪なり、偸盗すべからず。
三に礼と云は、法なり、放逸に淫を行ずべからず。
四に智と云は、正なり実なり、妄語すべからず。
五に信と云は、真直なり、妄りに飲酒すべからざるなり。
八戒は、八斎戒なり、此は在家の戒なり、
十戒は、次の沙弥の十戒なり、
次に、
十善戒と云は、世間の戒なり、いわゆる身三・口四・意三等を止る。十悪を転れば、即ち十善と云なり、
是れ皆、小乗律の戒なり、今の正意に非ず、
亦、十無尽戒と云は、大乗菩薩の戒なり、即ち梵網の十重禁戒なり、是の如き僧尼等を殺害する、是れ破仏出身血の罪に同なり、
又、仏と云は、覚者の名なり、法性を明めて心性を悟る人を殺害し、心性を悟る有智の人を殺害し、労彼の人の身心を苦しましむ、是、亦、出仏身血の罪に同じ。
『続浄土宗全書』巻15・75~77頁、訓読は原典に従いつつ当方
いわゆる「七定業(或いは、七逆罪)」の内容説明となるが、その中でも、「第一出仏身血」について詳述されている。悪心もて、仏身を傷つけ、出血させる罪を指すのだが、まず上記項目での問題提起は、かなり興味深いものである。つまり、この罪は、実際に釈迦牟尼世尊が存命で無くては成立しないはずだが、仏滅後かなりの年数を過ぎた末世に於いては、どのような行為が罪になるのか?と尋ねているのである。
この一事をもってしても、本書の作成者が、末世に於ける罪根と真摯に向き合っていた様子が分かるようである。それで、その問いへの答えもまた、興味深い。つまり、「三宝」の種類を3種挙げつつ、中でも「住持三宝」の教えをもって、「出仏身血」の罪を定義しているのである。例えば、「仏宝」とは、生身の仏陀だけでは無く、仏像や仏画も含まれ、それを破壊したり、資材として転用したりすることを、同罪だとしている。
そして、上記の説明では、「法宝」は僅かだが、「僧宝」がかなり詳しい。詳しすぎる印象もあるほどだが、現実問題として、仏宝は既に制作物となっており、法宝は元々理念が主である(部分的に、教えが書かれた経巻・経本を破壊の対象にすることがある)。だが、僧宝は実際には人として現存しているため、ここが問われたのである。理念や制作物への置換が利かないのである。
それで、本項目の結論としては、比丘・比丘尼・沙弥・沙弥尼・式叉摩那といった「五衆」に加え、菩薩衆を挙げつつ、「是の如き僧尼等を殺害する、是れ破仏出身血の罪に同なり」としたのであった。つまり、「出仏身血」と、「殺僧衆」とを同等に扱ったのである。この辺、実際の「七定業」では「殺和上・殺阿闍黎・殺聖人(阿羅漢)」とあって、沙弥等まで含まれている印象は無いのだが、今後の上記項目で扱うため、その際には意義を確認しておきたい。
【参考資料】
・宗書保存会『続浄土宗全書』巻15、大正14年
・浄土布薩式(新編浄土宗大辞典web版)
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