五戒を持て人道に生ずる事、最分明也。五戒を持する人は偽無真の身心を修する人也。故に其報に心正しく身全して六根完具の人間と生を得也。
又五戒は五常に相通じて正直の道也。此故に知べし、現に五常正き男女と生を得来事は、偏に前世持戒の功力なる事を。然ども今時、持戒正き人希なるが故に、人体を得来といへども、心は大約鬼畜也。地獄の馬を画に書て其面ばかり人たる相を顕す事是なり。
此を以て人々自心を顧て五戒を犯す事莫れ。
若然らずんば忽人身を失して万劫千生三悪道に堕せん事、全く遁るべからず、恐るべし、恐るべし〈五戒は殺生・偸盗・邪婬・妄語・飲酒也〉。
鈴木正三道人『反故集』巻上、25丁裏~26丁表、カナをかなにするなど見易く改める
一応、引用してみたが、全体的に業論の問題を扱い、現代であれば、明らかな脅迫的言動になりそうな気がする。よって、上記一節を安易に他者に向かって説くことはしないでいただきたい。あくまでも、江戸時代の元武士だった仏道者の言葉として、個人的に受け取っていただけれればと思う。
さて、いわゆるの「在家五戒」である。この「五戒」を、儒教で説く「五常」と重ねる見解は、以前も【日蓮聖人が示す「五戒」と「五常」の関係について】などの記事で書いたこともあった。実際、中国以東では、儒・仏二教(或いは、道教を入れた三教)の関係性は、様々に議論されてきた。もちろん、儒教側、仏教側、それぞれのポジショントークであったことは否めないが、一部には両方の見解を立たせようとした人もいた。
その上で、正三の場合は元武士だったこともあり、儒教にも一定の配慮を見せつつ、基本は仏教の側に軸足を置いていたと見て良い。何故ならば、全体としては因果論に基づいた話をしているからである。
そういえば、こちらの文章だが、『反故集』では「六道之解並出法」と名付けられている。それで、上記の説示かと合点はしたが、とはいえ脅迫的言動まで認めるわけには行かない。この辺、もう少し、説きようがなかったものかと案じている。
それから、今回はあくまでも「五戒」の持戒と六道とを重ねて説かれているが、正三の『麓草分』『万民徳用』などでは、むしろ三毒と三途(三悪道)とを重ねて説いているので、そちらの方が分かりやすかったのではないか?と思える。しかも、身体を用いた具体的な持戒よりも、内面的な心のあり方を問う三毒の方が、その後の果報についても分かりやすかったのではないか?と思うが、正三が説いた五戒とはまずは以上の通りであった。なお、同じ反故にて、「十戒」も扱っているので、それはまた別の機会に見ていきたい。
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