さて、本日は、拙僧の手元にある『總持両祖行術録』に収録されている「開山和尚退院上堂」について、学んでみたい。
開山和尚退院上堂
瑩山老和尚、退席に臨んで、紹碩、衆と同じく請うに、
上堂す、
機前に卓立して、独り物表に超え、
峨峨たる青山、蒸蒸たる山雲、
父子長年相離せず、君臣道合して内外無し、
〈叙・謝、録さず〉
記得す、世尊拈華瞬目し、迦葉破顔微笑す、世尊曰く、「吾に正法眼蔵有り、摩訶迦葉に付嘱す」と、這裏に到て吾に有る底の事、如何、
良久して曰く、
頂門凸出す一円相、
徧界蔵せず新總持、
遂に衣を首座紹碩に付して曰く、
梧桐葉落ち秋風興る、
竹林自ら知る百卉の長きことを、
渠が金衣著実の処を見て、
大陽目に盈て自ら堂に当たる、
卓、拄杖して、下座。
〈此の袈裟藕糸、梧竹の紋、鴿色なり、世世に相承して今に到る〉
『總持両祖行術録』13丁表、訓読は拙僧
この上堂は、『曹洞宗全書』「宗源(下)」巻に「瑩山和尚上堂」として収録されているが、例えば總持寺の退院であるとか、峨山禅師に伝衣した様子などは一切分からない(内容に「新總持」とあるのが、總持寺の住持承継を示すか)。あくまでも、経緯の詳細はこちらの「開山和尚退院上堂」を見て、初めて理解出来るのである。この記事では、上掲の上堂を訳しつつ、学んでみたい。
まず、瑩山禅師が總持寺を退席する際に、峨山禅師が上堂を請うたとある。よって、その日付は『洞谷記』の記載から、「(正中元年[1324])同七月七日、總持寺住持職、譲与碩首座峨山老に譲与す。法衣を著けて開堂し、拄杖・払子・戒策、同じく付嘱す」とあるため、正中元年7月7日だったものと思われる。『洞谷記』でも、瑩山禅師の上堂があったかどうかは不明だが、少なくともその伝承があったということなのだろう。
一切の働きより前、つまりは絶対的な境涯に立ち、独り悟りの世界にあり、その様子は峨峨たる青山のように堂々としており、蒸蒸たる山雲のように勢いがある。そして、私と弟子の峨山禅師とは長年に相離れることはなく、それは君臣が道合するように内外も無い、として新命である峨山禅師の徳を讃えられた。
そして、叙や謝語は省略されているが、最後に「拈則」として、拈華微笑話を挙げつつ、「這裏に到て吾に有る底の事、如何」と、瑩山禅師は御自身が峨山禅師に授けたところの仏法の本質とは何かと大衆へ問い、その後やや久しくして、「頂門凸出す一円相、徧界蔵せず新總持」とした。つまりは、仏法の要が突出しても、一円相のように仏法が円かであり、この世界のどこにも隠されることの無い、總持寺の新命和尚である」としたのであった。
その後、法衣を峨山禅師に授け、「梧桐の葉が落ちて、秋風(旧暦の7月は秋である)が興る。竹林は百卉(様々な草)が長きことを自ら知る。そして、峨山禅師が金襴衣(法衣)を着けた真実の様子を見れば、大陽が目に満ちて、みずからこの法堂の主人公となっている」というと、杖を法座の机にドンと突いて、法座から下りられた。
以上だが、このように考えると、總持寺承継の様子がとても良く理解出来る。やはり、現在の『曹洞宗全書』収録の文書では無く、本書の内容でもって理解した方が良いと思うのだが、書誌学的な問題が残るので、これだけで全てが分かるわけでは無い。南無太祖常済大師、合掌。
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