律に云く、秉羯磨有れば、我が法未だ滅せず。若し秉持せずんば、我が法、便ち尽く。
又、曰く、戒住すれば我れ住す。
理、虚説に非ず。既に深旨有り、誠に敬すべき歟。
重て曰く、
大師影謝して、法将に随て亡ぶ
邪山峻峙して、慧巘にして綱に隤う、
重て仏日を明す、寔に賢良に委くす、
若し小径に遵はば、誰か大方を弘めん、
幸に通哲に垂る、力を勉めて宣揚せよ、
冀は之を紹隆して替ること無く、永劫に伝えて弥いよ芳しし、
弥いよ芳ししとは伊何、戒海波を揚ぐ、
此れ則ち教えて将に滅するべきを而も滅せず、行ずるにも訛に欲して而も訛ならず、
正説に王舎に符して、無虧を逝多に事とす。
『南海寄帰伝』巻3・6丁表~裏、原漢文、段落等は当方で付す
上記の文章が、「十九受戒軌則」の末尾となる。まず、ポイントは引用されている「律」の文章である。要するに、羯磨がしっかりと行われていれば、仏陀の法が護持され、一方で、行われなければ滅する、としているのである。そして、この道理は虚説ではないとし、深い意旨があるとされている。
ところで、引用されている「律」だが、義浄は複数訳していて、その内の一部に、以下のようにある。
是の時、鄔波離、仏に白して言わく、「世尊、仏の説く所の如き浄・不浄地とは、知らず、斎何が浄・不浄と名づくるや」。
仏言わく、「乃至、正法の住世するに浄・不浄有り。正法若し滅すれば、悉く皆な不浄なり」。
(鄔波離言わく)「世尊、斎何が正法の住世すると名づけ、云何が滅すると名づくるや」。
仏、鄔波離に告げ、「乃至、秉羯磨有り、説の如く行ずる者有れば、是れ則ち名づけて正法の住世すると為す。若し秉羯磨せず、説の如く行ずること無きは、是れ則ち名づけて正法の滅壊すると為す」。
『根本説一切有部尼陀那』巻1
ほぼ同じ文脈は、『根本説一切有部百一羯磨』巻3にも出ており、これらの取意として義浄が引いたことが分かる。つまり、正法がこの世界にあることが、清浄ではあるのだが、その正法が世界にあることとは、羯磨(戒本の意味か)を護持することを意味するのである。
さて、その上で、戒律を護持することの意義について、義浄が偈頌をもって顕彰しているので、簡単に訳しておきたいと思う。
大師釈尊の影がこの世から無くなれば、法もそれにしたがって滅ぶ。邪教は山のように険しく、その智慧は険しいものである。よって、重ねて太陽のような仏法を明らかにするには、真に、賢者こそが詳しく明かすのである。もし、小道のような邪教に従ったとしても、どうして大方を広めることができようか。幸いに、仏法に通じたのであれば、努力して宣揚すべきである。こいねがうところは、仏法を盛んにして変わること無く、永劫に伝えていよいよその香りが芳しいものとなるように。
そのいよいよ香りが芳しいとはどのような意味か、それは戒の海に波が起きるようなことである。これはつまり、教えてまさに滅しようとしているときに、滅しないようにし、行うのであれば、地域による勝手な変化を否定することである。それは釈尊が王舎城で説かれた正しい教えに符合し、更には欠けることがないように、祇園精舎の修行を倣うべきなのである。
これは、義浄にとっての正法戒宣揚の誓願というべき内容だといえる。もちろん、義浄の年代とは違い、インドには釈尊の時代から継続された仏教は存在しないし、どれほどに文献などを学んでも、それこそ義浄が嫌がった「訛」は解消できそうにない。それでも、学ぶ意志を持ち、正法としての戒、或いは律の参究をしていくべきだといえよう。
さて、以上で本文を学び終わったのだが、個人的にはやはり、義浄が批判した「訛」について、もう少し学んでおきたいと思うので、この連載記事はあと一回続く。
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