それで、この「緇白」という用語だが、以下のような用例が知られる。
明年二月八日忽ちに衆に謂いて曰く、「吾れ此の居を願わず、旧隠に帰らんと要す」。時に印宗と緇白千余人、師を送りて宝林寺に帰る。
『景徳伝灯録』巻5「第三十三祖慧能大師」章
このように、「緇白千余人」とあるが、これが、出家と在家、合わせて1,000人以上であることを意味しているわけである。そこで、問題は「緇白」そのものであり、何故この語が「出家と在家」を意味するのか?ということである。この内、簡単なのは「白」の方である。以下の一節をご覧いただきたい。
更に互いに憍慠して、但だ勝説を求むるのみ。訶すこと無きは、尼揵親子、若し在家白衣の弟子有らば、彼れ皆な此の尼揵親子・諸もろの弟子等を厭患す。所以は何となれば、其の説く所の悪法・律を以ての故なり。
『中阿含経』巻52
ここで、「在家白衣の弟子」とあるが、これはいわゆる優婆塞・優婆夷などの在家信者を指しているのである。つまり、白衣とは、在家のことである。よって、「緇白」の白が在家を意味することは問題がない。問題は、「緇」の方である。そこで、こちらも以下のような一文を確認しておきたい。
緇とは、黒色なり。
澄観『大方広仏華厳経随疏演義鈔』巻51
以上のように、「緇」については、「黒色なり」とし、色の指定をされている。つまりは、「緇白」とは「黒白」の色を意味するのである。さて問題は、これが「出家」を意味する理由である。そこで、まずはこの「緇」が出家者の衣服などを意味するかどうかだが、以下の一節を見出したので、確認しておきたい。
律に云く、上色の染衣、服することを得ざれ。当に壊して袈裟色〈此に云く不正色染〉と作し、亦た壊色と名づくべし。即ち戒本中、三種の染壊なり。皆な如法なり。
一には青色〈僧祇に、銅青なりと謂う。今時、尼衆の青褐、頗る相近なることを得たり〉。
二には黒色〈謂わく緇泥涅とは、今時、禅衆の深黲、並びに深蒼褐なり。皆な黒色と同じ〉。
三には木蘭色〈謂わく西蜀の木蘭なり。皮、染めて赤黒色とす。古晋の高僧、多く此の衣を服す。今時の海衆、絹を染めるは微かなり。相い渉ること有り。北地、浅黄なり。是非の法を定む〉。
然るに此の三色、名濫りに体別す。
霊芝元照『仏制比丘六物図』
さて、上記内容から理解出来ることは、本書では僧侶が身に着けて良い袈裟の色を、三色指定している。その中で、第二に「黒色」を置いているのだが、その内容を「緇泥涅」とし、黒色の衣を表現するときに「緇」を用いているのである。よって、衣の色と「緇」との結び付けは問題無かろう。
それから、最後に残っているのが、「緇」が「出家」を意味するかどうかである。もちろん、黒色の衣を表現する語句に「緇」を用いており、これが袈裟のことだから、結果として出家を指すというのは分かるが、もう少し明示された文脈があると良いと思う。時代としては、大分下ってしまい、中国の明代以降だが、以下の一節を見出した。
緇素とは、緇を染衣と為し、出家人なり。素を白衣と為し、在家者なり。
智旭『阿弥陀経要解便蒙鈔』巻下
この通りである。なお、ここで「緇白」から「緇素」に話が変わってしまったので、ちょっと大変だが、見たいのは「緇」のみであるので、ご寛恕いただきたい。そこで、明らかに「緇」を「染衣(黒で染めた)」とあって、これを出家人としているのだから、少なくとも「緇白」を出家と在家という理解をすることには問題が無いことが理解出来たと思う。
その内、話としては「緇素」も見ていく必要もある気がするが、とりあえず今日はここまでか。
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