堂頭和尚慈誨して云く。薬山の高沙弥は、比丘の具足戒を受けざりしも、また、仏祖正伝の仏戒を受けざりしにはあらざるなり。然れども僧伽梨衣を搭け、鉢多羅器を持したり。是れ菩薩沙弥なり。排列の時、菩薩戒の臘に依って、沙弥戒の臘に依らざるなり。これ乃ち正伝の稟受なり。
你に求法の志操あること、吾の懽喜する所なり。洞宗の託するところは、你、乃ち是れなり。
さて、こちらの内容を素直に読むと、天童如浄禅師が示されることとしては、薬山の高沙弥という人は、比丘が受けるべき具足戒を受けていなくても、仏祖正伝の仏戒を受けていないわけではなく、九条衣を受け、鉢盂を持っていたという。そして、そのようなものを「菩薩沙弥」というと指摘した。そして、修行僧を戒臘に随って順番を付ける時には、菩薩戒の法臘に随って、沙弥戒の法臘には依らないとすることが、正伝の宗旨を受けることだという。
以前からここは、道元禅師が「菩薩戒」を重視するきっかけになった典拠とされていたし、拙僧もそう理解していた。ただし、薬山惟儼禅師の弟子であった「薬山の高沙弥」について詳細を理解していないので、その辺を改めて検討しておきたい。
それで、拙僧自身、この「薬山の高沙弥」の話の原典について、子細に参究したことがなかったので今回改めて見てみたが、『景徳伝灯録』巻14「薬山高沙弥」章や『聯灯会要』巻19「高沙弥」章がある。
初めて薬山に見ゆ。
山問う、「甚れの処より来たる」。
師云く、「南嶽より来たる」。
山云く、「甚れの処に去る」。
師云く、「江陵に受戒し去る」。
山云く、「受戒して箇れ甚麼をか図らん」。
師云く、「生死を免れんと図る」。
山云く、「一人、受戒せざる有り。亦た生死の免るるべき無し。汝、還た知るや」。
師云く、「恁麼ならば則ち仏戒、何ぞ用いん」。
山云く、「這の沙弥、猶お唇歯に掛けること在り」。
師、因みに是に自の本心に契う。更に受戒せず。
『聯灯会要』、訓読は拙僧
なお、「一人、受戒せざる有り。亦た生死の免るるべき無し」が、『景徳伝灯録』の場合には「一人、受戒せざる有り。亦た生死を免る」となる。色々と迷うところだが、意味的には『景徳伝灯録』の方が良いと思う。この場合の「受戒」とは、いわゆる律院に行って、二百五十戒の比丘戒を受けることだから、それをしなくても、「生死」を免れるかどうかという話で、『景徳伝灯録』の方が、より本質を突いている。『聯灯会要』は余りに普通すぎて、禅問答としての深みが無い。要は、戒の受・不受に関わらずに生死を免れている存在を尋ねているはずだからである。
そして、『景徳伝灯録』の方であれば、受戒しなくても、その本質に契ったから良いという話になる。非常に迷う。ただし、この問答には続きがあって、薬山がこれをどう評価したか、というのが問題となる。
師、薬山を辞して、去りて庵に住す。
山問う、「生死事大なり。何ぞ受戒せずに去らん」。
師云く、「知りぬ是般事、便ち休す。喚んで甚麼をか戒と作さん」。
山、咄して云く、「這の饒舌沙弥、入来して近処の庵に住め。庶幾の時、復た相見す」。
同上
これを見ると、比丘戒を受けずにいる高沙弥に対して、薬山が「生死事大」だから受けるべきだと促しているようにも見えるためである。そうなると、『聯灯会要』の先の文章の通りで良いような印象も受ける。そこで、この問題を解決するべく、『祖堂集』も参照してみたい。同書には4巻に、高沙弥のことが記載されている。
石室の高沙弥、京城に往きて受戒せんとし、恰かも朗州に到る。経過する次で、薬山下に近づき、路上に忽ちに一個の老人を見る。沙弥、問う、「老人万福」。
老人曰く、「法公万福」。
沙弥問う、「前程は如何」。
老人曰く、「法公、何ぞ忙を用いん。這裏に肉身の菩薩の出世有り。兼ねて是れ羅漢僧の院主と造る。何ぞ妨げん、山に上りて礼拝することを」。
沙弥、纔に個の消息を得て、便ち薬山に到る。衣服を換えて直ちに法堂に上り、和尚を礼拝す。
師曰く、「什摩の処より来たる」。
対えて曰く、「南嶽より来たる」。
師曰く、「什摩の処にか去る」。
対えて曰く、「江陵に受戒し去る」。
師曰く、「受戒して什摩をか図らん」。
対えて曰く、「生死を免れんと図る」。
大師曰く、「一人の受戒せずして生死を遠ざかる有り。阿你還た知るや無や」。
対えて曰く、「既に若し此の如くならば、仏の世に在りて二百五十の條戒を制するは、又た奚をか為さん」。
師曰く、「咄。這の饒舌の沙弥、猶お脣歯を掛著する在り」。
師、便ち伊をして衆に参じ去らしめたり。
『祖堂集』巻4「石室高沙弥」項
『景徳伝灯録』や『聯灯会要』では少し分かりづらかったが、流石に『祖堂集』は前後の文脈が分かりやすい。それで、まず高沙弥の態度を決めたと思われるのが、最初に出会った「老人」の言葉で、「肉身の菩薩の出世有り。兼ねて是れ羅漢僧の院主と造る」であろう。羅漢僧とはこの場合、声聞のことを指すから、薬山の評価として菩薩でありながら、声聞だといっていることになるだろう。
それで、高沙弥は薬山に上り、法堂で和尚を礼拝し、先ほどと同じ問答になった。しかし、ここでの問答を見ると、やはり「受戒せずして生死を遠ざかる」とある。こちらの方が意味が深いし、やはりこちらが自然であろう。また、高沙弥が「仏戒」としたところは、「仏の世に在りて二百五十の條戒を制す」とあって、声聞戒のことであることが明らかである。なお、薬山は言葉にならないところの「那一人」について答えて貰いたかったのだろうが、高沙弥が制戒のことを述べたので、「余計なことをしゃべるヤツだ」といいつつも、修行僧の中に入れた様子が分かる。
なお、如浄禅師が指摘する「鉢盂」の件だが、これは『景徳伝灯録』などにも見える話で、薬山の下で高沙弥が鉢盂を捧げて問答するので、それを指しているのだろう。しかし、袈裟や菩薩戒の件は、全く分からない。これらをまとめると以下の話となる。
・薬山の高沙弥は比丘戒を受けなかった
・薬山の高沙弥は鉢盂を持っていた
以上である。よって、「菩薩沙弥」とするのは、結果として「比丘戒」を受けていないからという消極的理由である気がしてきた。しかし、如浄禅師は明らかに、高沙弥は菩薩戒を受けていると主張する。そして、沙弥戒ではなくて菩薩戒の法臘で数えたともいう。ここまで来ると、本当に分からない。
少なくとも、高沙弥の事績を伝える史伝からは分からないことになる気がする。或いは、拙僧が今、容易に見られない何かに、そのことでも書いてあるのだろうか。しかし、この話は、曹洞宗に於ける得度作法などに甚大な影響を与えた印象がある。何故ならば、薬山は我々青原下の1人であって、その戒思想は我々が伝統として仰ぐべき対象となるためだ。
今後、『宝慶記』の註釈書についても、慎重に見ておく必要があると言えよう。
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