そうなると、ここで2つの疑問点が出てくる。1つは、坐具については本当に礼拝に使えないのか?2つは、では礼拝の時に敷く法具は何だったのか?ということである。前者については、坐具に関する記述を丹念に学ばないと分からない。後者については、義浄も少し述べてくれているが、それを更に学ぶ必要がある。
よって、これらを課題にしつつ、少しでも理解を深めるためにこの続編の記事を用意した。まずは、坐具(尼師壇)について、もう少し色々と学んでみよう。
長老梨婆多、亦た座房に向上し、入り已りて頭面もて上座の足を礼し、臥具上に尼師壇を敷きて、加趺坐を結ぶ。
『十誦律』巻60「七百比丘集滅悪法品第二之上」
以上の通り、或る長老の動作を見てみると、まず先に礼拝し、その後に尼師壇を敷いて坐っている。つまり、尼師壇を礼拝に使った様子が見えないわけである。ところが、中国で編まれた文献を見てみると、以下のような指摘がある。
大迦葉、座より起ちて、麁布の僧伽梨を披き、尼師壇を捉え、阿難の前に至りて尼師壇を敷き、阿難を礼し已りて、右繞三匝す。
南山道宣『関中創立戒壇図経』「戒壇立名顕号第二」
このように、南山道宣(596~667)の指摘では、摩訶迦葉尊者が阿難尊者に対して礼拝するときに尼師壇を用いたという。そして、義浄(635~713)がそれに対して批判しているということは、これらを知った上で、ということなのかもしれない。
なお、南山道宣とほぼ同時代の道世の著作である『法苑珠林』巻10「千仏篇第五之三」でも「壇の中心に至り、自ら尼師壇を敷いて、十方仏を礼す」とあって、やはり尼師壇を礼拝に用いている。だが、これらは「律」には見えないことである。よって、後代の文献ではあるが、以下のように書かれている。
抽坐具
南方、抽いた坐具を以て礼を為す。律を検するに文無し。僧史略を按ずるに云く、近ごろ坐具を開くを以て便ち礼と為すもの、以て之を論することを得る。昔、梵僧此に到り、皆な尼師壇を展きて、上に就いて作礼す。
『釈氏要覧』巻2「礼数」項
『釈氏要覧』の成立は中国北宋代の1019年とされているので、先の文献などとは数百年の開きがある。そのため、この段階で、南方(現在の東南アジア?)では、坐具でもって礼拝している。しかも、後半の文章については、999年重修の『大宋僧史略』巻上「礼儀沿革」からの引用であるが、「梵僧(インド僧)」が坐具を用いて礼拝していたという。
そうなると、インドでも坐具での礼拝が行われていたということなのだろうか?それとも、中国での坐具の礼拝を正当化するための記述だろうか?しかし、インド由来の「律」には見えないが、中国で行われているという坐具での礼拝というズレに、中国での学僧達は気付いていた。
一方で、禅宗を中心とする叢林の「現場」では、当然のように坐具での礼拝が一般化した。よって、この辺も中国宋代に於ける教律禅という三宗派に於ける、軌範意識の相違というべきなのかもしれない。
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