『沙石集』は全10巻ですが、この第10巻が、最後の巻になります。そして、第10巻目には「本・末」とあって、現在は「末」の部分、つまり最後の巻の最後の部分になります。その末尾には「述懐の事」と題して、無住が何故本書を著したのか、その心念などが述懐されています。しかし、思った以上に長いので、前回と今回の2回に分けて見てみたいと思います。
田舎の、ある山里の柴の庵で、(物語を書きたいという)心だけがある中で、書籍も持っていないので、手に持った筆に任せて、その想いのみを簡単に書いた。多くは、誤ったことも多いだろうけれども、その筋が仏法の意図に違わないようにしたので、大綱を知る人がおられれば、私の願いは満たされる。
文書の文章や、古人の名についても、ちゃんと知らないことが多い。後代の賢人達は、直し明らかにして、弘めてくれることが私の望みである。
中国には荊溪湛然の『金錍論』、日本では吏部(紫式部)の『源氏物語』も事物に寄せて作られたものだが、或いは世の中の人の、情があることを思い、或いは仏法の義門を理解させるために、その跡を遺した。私の著作も、見聞した世間のことについて、出家解脱の道を知らせようとしたものであり、古今の違いはあるが、志は同じものである。
心ある人は、この志を助けて、誤りを正しく直し、なお、書き繋ぐなどして、愚かな人を導く媒体として、見聞した人、随喜の輩、将来には互いの導き手(善知識)となって、仏乗を讃える因となり、法輪を転ずる縁として、菩提心を発す種とし、説の通りの修行する糧とすべきである。仏弟子たる私の本意は、ここにある。
南無仏陀三宝、南無和光善神は、これを擁護していただき、冥助を加えていただいて、この仏弟子の心願を助け、この物語がはるか後の時代にまで弘通し、迷える衆生を導く縁となるようにしていただきたい。
時に、弘安六年中秋
拙僧ヘタレ訳
この一節は、無住が何故この『沙石集』を著し、しかも、それがどのように活用されるべきかを願っていたかが分かるものです。具体的には、多くの人に、仏法を知っていただき、迷いから脱してもらうということです。そして、興味深いのは、その前例として、中国天台宗の荊溪湛然の著作が出ているいることは分かるのですが、紫式部の『源氏物語』であっても、仏法を示す著作だと判断していることが興味深いです。
これはおそらく、無常観などを知らしめるものであったと評価しているのでしょう。
また、無住自身は、自らの知識や文章に絶対の自信を置いているわけではなく、誤りについては後人によって直されることを望んでいます。確かに、一部では、正しい引用かどうか判断できない場合もあります。覚えていた文章を、典拠に確認しないままに採り上げた場合もあるのでしょう。
それから、心ある人に対し、書き繋ぐことも望んでいる無住ですが、この意図を受けたものか、江戸時代に入ると『続沙石集』などを初めとして、類似の文献が出るようになります。
個人的には、無住が自らの行いへの加護を望んだ対象が「南無仏陀三宝、南無和光善神」となっていることが気になります。特に、後者の言い方は面白いと思います。確かに、無住は当時の神仏習合の文脈の中で生きた人ではありますが、ここまで明確に言われると分かりやすいですね。
以上、無住の本書に於ける述懐を簡単にまとめてみました。次回の記事が、この連載の本当の最終回になります。
【参考資料】
・筑土鈴寛校訂『沙石集(上・下)』岩波文庫、1943年第1刷、1997年第3刷
・小島孝之訳注『沙石集』新編日本古典文学全集、小学館・2001年
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