鼻息微通身相既調欠気一息左右揺振兀兀坐定 此の一段三蔵法数十八に委く出、此の鼻息微に自然に通とき三昧の現成なり、故に仏々祖々も此の鼻孔裡に向て妙脈貫通せり、欠気とはためいきを吹出なり、揺振とは身を左右にふり動して麁より細に至り止む、是を坐定と云仏説の如し、兀々とは不動の㒵之安住不動如須弥山の姿なり、かなの坐禅儀(※「箴」の誤記)に兀々地は仏量に非ず法量に非ず悟量に非ず会量に非るなりと已上、此祖意を参ずべし
8丁裏
まず、この多くは面山禅師『聞解』の見解を略述したものである。その上で、「妙脈貫通」は巨海禅師の表現である。それから、引用されている「坐禅儀」巻は、以下の通りである。
兀兀地たとひ我なりとも、思量のみにあらず、兀兀地を挙頭するなり。兀兀地たとひ兀兀地なりとも、兀兀地いかでか兀兀地を思量せん。しかあればすなはち、兀兀地は仏量にあらず、法量にあらず、悟量にあらず、会量にあらざるなり。
「坐禅箴」巻
ここから、兀兀地と「量」との位置関係を探るべきだといえる。
兀兀地のかさなりたることは、坐禅たとひ、坐禅也とも、坐禅争坐禅を思量せむと云詞也、坐禅究尽の道理如此いはるるなり、兀兀地仏量法量等にあらざる條勿論事なり、
『正法眼蔵抄』「坐禅箴」篇
この兀兀地の重なる様子が肝心で、そこに坐禅が坐禅であっても、坐禅が坐禅をどのように思量すべきか、という言葉である。よって、兀兀地とは、ただ坐禅究尽であって、他の「量」に還元されないのである。それを喩えれば、「安住不動如須弥山」とも言われるのである。
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