思量箇不思量底不思量底如何思量非思量此乃坐禅之要術也 思量するは有心故要術にそむく、高く眼を着よ、此の非思量の境を正伝の恵命のやれ仏祖の三昧ぞと口斗り言ては要術とは不言令也、此の一段は全く薬山に僧問の公案を用らる参熟して究明すべし
広録挙此語有頌曰非思量の処絶思量切忌将玄喚作黄剥地識情倶裂断すれば钁湯炉炭也、清涼と只此非思量の境は識情裂断故に識情にて造作する三界六道は一時に消殞す
8丁裏~9丁表
ここは、正直なところ上記だけでは分からない(余り、良い略し方をしていない)ので、面山禅師の説示を見ておきたい。
思量底を思量するは有心なり、要術にそむく、不思量底を不思量するは無心なり、要術にそむく、今は不思量底を思量す、ゆへに思量底を不思量す、ここを非思量と謂ふ、この境界を正伝の慧命とす、
『普勧坐禅儀聞解』
これならば正しく理解出来ると思う。そして、この上で、道元禅師の『永平広録』を見なくてはならないのである。『述解』写本はこの辺、少しく混乱しているのか、同じ文章を2箇所で引用している。またそれは、後日申し上げる予定。そこで、『聞解』で引用されたのは、『永平広録』巻5-373上堂と、同巻7-524上堂となる。前者は以下の通りである。
師曰く、有心已に謝し、無心未だ様ならず、今生活命、清浄を上と為す。
これは、薬山非思量に対しての偈頌となる。有心・無心という分別を破して、ただ清浄なることを上としているのである。続いて、後者だが、こちらは色々と問題がある。まず、引用されたのは、以下の偈頌である。
非思量処思量を絶す、切忌すらくは玄を将って喚んで黄と作すことを、
剥地識情倶に裂断すれば、钁湯炉炭也た清涼なり。
卍山本、略録
まず、これは道元禅師が実父である源通具の供養として行った「源亜相忌上堂」への偈頌なのだが、これであれば確かに「非思量」についての問題を扱うことが出来るかもしれない。だが、『永平広録』の別本では以下の通りである。
思量兀兀李と張と、談玄を畢えんと欲するも又た黄を道う、
誰か識らん蒲団禅板の上、钁湯炉炭自ら清涼なり。
祖山本
こちらでは、「非思量」を扱うことが出来ない。そういった問題があるのである。しかも、内容的には「卍山本」の方が、明らかに意味が通る。祖山本はちょっと分かりにくい。ただそうであるが故に、道元禅師晩年の説示としては、意外と祖山本を正しく把握することの方が大事なのか?等とも思ってしまう。
これは、また今後、検討する機会があるかもしれない。なお『述解』は『聞解』の略述なので、余り話すことが無い。
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