日本国先代、曾て仏生会・仏涅槃会を伝う。然而ども、未だ曾て仏成道会を伝え行わず。永平、始めて伝えて既に二十年。自今以後、尽未来際、伝えて行うべし。
『永平広録』巻5-406上堂
いうまでもないが、何故我々が釈尊の「成道」を祝うのかといえば、我々禅僧にこそ「釈尊成道の真意」が会得されているからである。宋代の中国禅宗に至って、初めて以下の説話が禅僧によって主体的に自覚されている。
釈迦牟尼仏言く、明星出現の時、我と大地有情と同時成道。
『永平広録』巻1-37上堂
道元禅師は、この同時成道を『正法眼蔵』の各所にて引用されて、自らの宗乗を宣揚しており、瑩山紹瑾禅師も『伝光録』首章にて、この釈尊悟道の因縁を挙揚された。よって、曹洞宗では釈尊成道の事実をどのように会得し、主体的に参究されていくべきかが問われている。同時成道という法悦の中では、主体も客体も有りながら有り潰れていくのが、その道だともいえる。万法すすみて自己を修証するはさとりなり、とはいいつつ、我々はどこか、自分自身が悟りを開くのではないか?と思っている。でも、もしかすると、そのような悟りなんてのは、実際には魔に欺されているだけ、しかも「オレは悟った」なんていって触れ回るのは、他の人にしてみれば良い迷惑となる。
臘八上堂に云く。瞿曇老賊、魔魅に入る。人天を悩乱して狼籍する時、眼睛を打失して覓むる処無し。梅華新たに発るは旧年の枝。
『永平広録』巻3-213上堂
道元禅師は、釈尊が臘八に、魔に入ったと喝破された。しかも、自らの教えで、人間界を悩乱するのは狼藉者だともされる。仏法のもっとも肝心なところは失われ、探しても見つかりはしない。それは、結局悟りといったって、それが発るのは、当にこの我々の凡夫の身心に於いてである。
衆生、作仏・作祖の時節、ひごろ所有の仏祖を罣礙せずといへども、作仏祖する道理を、十二時中の行・住・坐・臥に、つらつら思量すべきなり。作仏祖するに衆生をやぶらず、うばはず、うしなふにあらず。しかあれども、脱落しきたれるなり。
『正法眼蔵』「諸悪莫作」巻
我々は、仏というのが、何か特殊な価値であると思い込んでいる。しかし、実際には我々自身の行いの中で、その事実が作り出される。それを超えて、価値がどこかにあるのではない。衆生は、修行を通して、仏祖の自覚を制作している。日々の修行の中に、どのようなものが仏祖であるかが常に問われる。この反省によって、自ら自身の行為のフィードバックを経て、初めて行為が仏祖化していく。それをせずに、ただ(それが外見的には修行であっても)漫然と行うのであれば、ただの行いであり、仏祖化への道は閉ざしている。
よって、行いによって決まるので、衆生という本質論を云々しているのではない。或いは、仏祖であるということが、何かしらの固有の境地であったりすると思っているのなら、それも大きな誤りである。仏祖とは境地ではない。修行の継続であり、その継続によって得られる経験の進展をこそ、仏祖への途とはいう。衆生が変わって仏祖になるのではなく、衆生か?仏祖か?というカテゴリー自体の消失が、本来の仏祖への途であるというべきである。
示に云く、仏々祖々皆本は凡夫なり。凡夫の時は必ず悪業もあり、悪心もあり。鈍もあり、癡もあり。然ども皆改めて知識に従ひ、教行に依しかば、皆仏祖と成りしなり。
今の人も然るべし。我が身おろかなれば、鈍なればと卑下する事なかれ。今生に発心せずんば何の時をか待べき。好むには必ず得べきなり。
『正法眼蔵随聞記』巻1-13
今、凡夫であるからといって、卑下することはない。むしろ、卑下している暇があれば、発心し、修行すべきである。しかし、その修行は、ただ自己満足を得るために行ってはならない。道元禅師も示されているように、善知識(優れた師)に従い、その上で仏祖が残された教えや行いによって進めば、自ずと誰しも仏祖となる。或いは、そのように皆仏祖となってきた。
我々自身、既に釈尊の「同時成道」によって、成道そのものの身心であることは証明されている。だからこそ、卑下する必要はない。既に釈尊が証明されたことを、改めて自覚するだけで良いといえる。優れた師に就き行ずれば、自ずと釈尊の同時成道が、我々にその自覚を促す。全部自分でする必要はない、多くはこれまでの仏祖に甘えてしまっても良い、しかし、決めるところは決めねばならない。見明星は、他人にやって貰うことは出来ず、自分で見なくてはならない。
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