拙僧自身がご葬儀の導師を承ることがある。その時、拙僧はご葬儀を依頼された状況によっては、葬儀中に本来授けられるべき『血脈』を付与出来ない場合がある。ここでは、狭義としてのそれを意味しており、具体的な系図が書かれた『血脈譜』を指しているとご理解いただきたい。
その上で、拙僧自身受けた教えとして、もし、物理的に系図が無い場合、空中に「円相」を描いて、その代わりにすべきだといわれたことがある。そこで、それを実践しているのだが、この意義について考察すると、こんな感じだろうか・・・?
フレイザーによると、呪術の原理には二種のものがあり、その原理に応じてまた呪術の類型に二種のものがあるといいます。その原理の第一を類似の原理とよんでいますが、これは似たものは似たものを生むということです。逆にいえば、結果は原因に似ているというわけです。
〈中略〉第一の類似の原理から出てくる呪術を、類感呪術または模倣呪術と名づけています。類似の原理に基づいて考えると、ある結果が起こってほしいならば、あらかじめその結果に似たことをおこなえばよろしい、ということになります。そこで真似をし模倣することによって欲する結果を得ることができるという信念に立った呪術儀礼が生じてくる。
脇本平也先生『宗教学入門』講談社学術文庫・59頁
拙僧つらつら鑑みるに、拙僧が『血脈』を授けるために空中に円相を描くのは、ここでいう「類似の原理」に基づく「模倣呪術」であると理解出来よう。尚更に、「真似をし模倣することによって欲する結果を得ることが出来るという信念」に基づいて行われていることが前提になるならば、その通りである。
何故「円相」を描くかといえば、『血脈』が「円相」をいただき、そこから書き始めるためである。
先ず頂上に一円相有って、次に釈迦牟尼仏、曁び迦葉・阿難・六十余祖、乃至、現在師、或いは信士・信女の名字を書く。
万仞道坦禅師『室内三物秘弁』「血脈」項
そして、この円相とは円満無欠なる仏陀の悟りを意味しており、そこから、あらゆる衆生の名字、つまりは、あらゆる事象を通貫する道理として悟りがあることを意味している。『血脈』とは、単純に「伝戒の系譜」とはされるけれども、実際には菩薩戒を伝戒することによって、我々は仏陀の悟りによって通貫されるのである。或いは、通貫されていることを示すのが『血脈』なのである。
だからこそ、物理的なそれを最重要視することはもちろんだが、その次善の方法として、「円相」を描くことにより、今現前に眠る新亡精霊のために、悟りに通貫していることを示すのである。それはもちろん、その「円相」によって、その事実に気付いて欲しい、気付くことが出来るはずだという信念に則って行われる、模倣呪術的な方便である。
そもそも、禅僧が禅問答や、上堂説法の際に行う様々な所作を、我々はどう理解すべきだろうか。それは、そこに仏法によって催され所作せしめられている事実に気付いて欲しいという禅僧の方便があるはずである。そして、結果としてその事実に気付いたのであれば、それは十分に呪術的である。呪術というと、我々はどこか、未開の宗教のようなイメージがあるかも知れない。だが、そもそも言詮不及なる禅の悟りに帰入せしめる手段は、高度文明の様々な情報伝達技術ではむしろ及ばない。言葉が絶し、分別が絶するところに於いて行われる。だからこその、以心伝心・教外別伝である。
その境涯は、まったくもって「未開」ではなかろうか。
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