それで、この連載では条文の一々を読むことで、ルターの問題意識を探ってみようという話である。
1 私たちの主であり、また教師であるイエス・キリストが「悔い改めのサクラメントを受けよ」と宣したとき、イエス・キリストは信じる者たちの生涯のすべてが悔い改めであることを願った。
下掲同著・13頁
まずはこちらである。そこで、イエスがキリスト教徒にとって「私たちの主」であり「教師」であることは当然であるから、今ここで論じることは無い。その上で、イエスが「悔い改めのサクラメントを受けよ」と宣したとあるのは、『マタイによる福音書』であるらしい。
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
04章17節
『マタイ』では、この直前に預言者イザヤを通して言われたことが実現するため、イエス自身がガリラヤを布教地に選んだことや、先駆者であるヨハネがヘロデによって投獄されたことが指摘されており、その上で上記のように「宣べ伝え始められた」となっている。つまり、イエス自身がヨハネと同じく伝道者として改めて活動を始めたことが示される。更には、この「悔い改めよ。天の国は近づいた」はヨハネの言葉を承けたものであるともされる。
なお、ルターが引いた言葉は「悔い改めのサクラメントを受けよ」とあって、少しく違っているが、実際の『聖書』原文はルターの通りであるらしい。また、「サクラメント」とは、キリスト教各派で定められた神の恩恵に与る儀式であり、カトリック教会では秘跡といい、「洗礼・堅信・聖体・ゆるし(最近では余り用いないようだが「告解」とも表記)・病者の塗油・叙階・婚姻」の7つだそうで、一方、プロテスタント諸教派では聖礼典と称して、洗礼と聖餐式を指すとのこと。この場合、ルターはまだカトリックの立場であったため、先の7つに従って考えているのだろう。具体的には「ゆるし」ということになるのだろうか。
つまり、ルターは、イエスがヨハネと同じように、内心の回心を求めたことを承けて、自らも神を信じる全ての者達の生涯が、悔い改めとなり、救いに与ることを願ったことを意味していよう。実際に、「贖宥状」問題とは、我々人間が如何にして日々犯した罪を悔い改めるのか?が本質的な問題としてあるとも考えられるので、ルターとしては、それに関する最も大切な教えを九十五箇条の最初に置いたとも思われるのである。
※『提題』の一条一条は短いので、記事も全体的に短くなると思うが、次回以降もお付き合いいただきたい。
【参考文献】
・マルティン・ルター著/深井智朗訳『宗教改革三大文書 付「九五箇条の提題」』(講談社学術文庫、2017年)
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