・8月8日はそろばんの日(日本珠算連盟・沖縄県支部)
さて、例年、この日に因んで仏典・祖録に出るそろばん(算盤)などを紹介していたのだが、今日は以下の一節を見ておきたい。
仏法算盤論
法華寺と浄土寺とが、垣を隔てゝ隣づから、毎朝、花を折りに出ては、和尚同士で顔を見合せると、つひ、宗論がおつ始まる。
或る時、浄土の和尚がいふには、『何う考へて見ても、法華は仏になられませぬ。』
すると、法華のお上人が腹を立てゝ、『法華経は、諸経第一とある。何故、仏になれませぬ。何か確かな証拠がありますか。』
『おゝ証拠がありますとも。法華宗は、算盤にかゝりませぬ。』
上人、益々腹を立てゝ、『仏法が算盤にかゝるの、かゝらぬのと、何のお経に出てますかね?』
『お経には出てないけれど、目の前、算盤にかゝりませぬ。先づ、釈迦如来の御命日は二月の十五日、三五の十五日と算盤にかゝる。
浄土の元祖法然上人は正月廿五日、五五二十五日と、算用が出来る。
一向宗の開山親鸞は、霜月の二十八日、四七二十八日と勘定が出来る。
真言の祖師空海は、三月の二十一日、三七二十一日と算盤にかゝる。その他聖一国師でも、伝教大師でも、勘定の出来ぬのはない。
たゞ勘定の出来ぬのは、日蓮宗の祖師で。二七十四では、一つ余る。三四十二では、一つ足らぬ。十三日の御命日は、何うしても、算盤にかかりませぬ。』
◎勝つても、負けても、何うでもよい小問題、力を入れることはないが、小人は、「俺が」の一念が突つ張つてゐる所から、時々、『蝸牛角上の争ひ。』をやる。戒しむべきである。
鈴木魅『一話一訓趣味と修養』愛国社・大正11年、115~116頁
「仏法算盤論」なんて出ているから、どんな高尚な話かと思っていたら、何てことは無い、法華宗と浄土宗との宗論がネタになっている小話だったようだ。
だいたい、何故法華宗で仏になれないか、という説明が酷い。経典などに理由があると思いきや、「算盤にかからない」というフワッとした理由で、しかも、詳しい説明を聞いてみたら、祖師方の命日が話題になっているようだ。具体的に出ているのは、釈尊・法然上人・親鸞聖人・弘法大師・聖一国師・伝教大師などであるが、要するに祖師方の命日が割り切れるかどうか?という話になっている。
この点からすると、ウチの宗派も「算盤にかかる」宗派である。道元禅師は建長5年8月28日で、瑩山禅師は正中2年8月15日だから大丈夫。
それで、日蓮聖人が何故「算盤にかからない」といわれているかというと、命日は弘安5年10月13日であったという。つまり、「13」は割り切れない数字なので、「算盤にかからない」という話になっているのである。
まぁ、ケチの付ける理由は数多あれど、これは酷い方だ。しかも、素数だから、かえってそれが良いとかいう人も出てきそう。
今日のそろばんの日、こんな記事で大丈夫だろうか?不安になってきたので、少しく拙僧的なネタも。実は、法華宗と浄土宗が争うというのは、江戸時代の滑稽ばなしのネタになっており、この「そろばん」ネタは見たことないが、他はある。そのような民間の説話になるほど、両宗派の「仲の悪さ」は有名だったということになるだろう。
そろばんを弾けないのが我が生死、ただ法のままに生き死にしたいものだ。
#仏教
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